恋人レッスン 

第四話 彼女の部屋での過ごし方

作 山下泰昌


 「ところでさ!」

 「な、なんだよ!」

 立石真美に突然、脈絡無くそう話を切り出された俺は、吃驚して思わず飛び

上がった。

 いや、マジで。

 ノーガードでよそ見をしていたボクサーが顔面にストレートを食らったよう

なもんだ。

 ここは学校から《北習志野駅》との中間点。つまり通学路、学校からの下校

の途中だ。

 学校では、とある二人組の陰謀のせいで《なりゆき公認カップル》になって

いるので、最近は二人でいても何にも言われない。

 そんな訳で一緒に下校する頻度が結構高くなっている。

 ただ登校の方は別々だ。

 朝が苦手な俺が、とてもじゃないけど時間に合わせられないのだ。

 この前ふと思って指を折って数えてみると、最近は五日中三日は立石と帰っ

ている計算になる。

 そのせいか北村なんかひねて

 「あーあ、どうせ飯尾は、俺らと遊ぶより、立石と遊ぶ方を選ぶんだもんな」

 と、訳の分からないことを言い出していたりする。

 「あの《鉄仮面》と一緒に帰って面白いの?」

 とも訊かれる。

 でもこれが結構、面白いのである。

 いや、面白い、というより楽と言った方のが良いのかな。

 立石は基本的に気を使って話をするタイプではない。言いたいことを朴訥に

そのままの言葉で吐き出すタイプだ。

 その為か、対する俺もあまり気を使って話さなくて済む。

 滅茶苦茶、楽なのである。

 男友達と付き合っているのと大差ない気軽さで話が出来るのだ。

 話の呼吸が俺と性に合っているのかも知れない。

 話していて、疲れない。

 立石の方もそんな感じらしい。

 それに最近、立石は良く笑うようになってきた。

 この立石の無防備な笑いが見たくて一緒に下校しているってのもある。

 笑う瞬間は、普段、鉄の鎧に覆われた立石の心が外気にさらけ出される瞬間

だ。

 俺に対して立石がそれを見せてくれるのは可愛いと思うし、素直に嬉しい。

 そう言う訳で最近、立石と良く下校している。

 あんまり深い意味はない。

 ただ、一緒に居て嫌な存在じゃない。それだけだ。

 今日もそういう自然なシチュエーションだった。

 そんなとき、立石が突然、話の流れを無視するかのようにいきなり「ところ

でさ!」と話を切り出したのだ。

 俺でなくてもびっくりすると思う。

 「なに?」

 俺は胸の動悸を抑えながら聞き返した。

 「あのさ、明日の日曜日なんだけどさ……」

 立石は一度言葉を止めて、何かを飲み込むかのように息を吸い込んだ。

 「……暇か?」

 お? まさかデート? 立石からのお誘いは初めてだ。

 「ああ、たぶん暇だけど」

 俺は勿体つけて言う。はっきり言って、俺は年中、暇だ。

 立石は俺のその言葉を咀嚼するかのように頷いて、そして丁寧に言葉を吐

き出した。

 「明日、空手の試合に来ないか?」

 がくがくがく。

 俺の気力メーター、大幅減少。

 なんて色気のかけらもないデートなんだ。というかこれはデートのお誘いな

のか?

 「それって何? 誰が出るの? 佐竹とか八巻とか有名人が来るの?」

 「違う、違う」

 立石は右手をぶんぶんと顔の前で振る。

 「じゃ、なに」

 立石は少し恥ずかしそうにうつむく。

 「わ、私が出るんだ」

 「ふうん、そう」

 と言ってから俺の脳がその言葉の意味を演算終了するまで、たっぷり横断歩

道の信号が青から赤に変わる余裕があった。

 ………。

 「なにぃ!」

 今度は立石が驚いた。

 「何だ、急に」

 「立石が試合に出るの? 闘うの?」

 「違う、違う」

 立石は両手を大袈裟に振った。

 「《試合》っていっても二種類あってさ、飯尾が想像している様な一対一で

闘う試合《組手》と、規定の型を演武してその完成度を競う試合があるんだ。

私が出るのはその《型》の方」

 「なんだ。そうか」

 俺はほっとため息をついた。

 例え立石とはいえ、自分の知っている人間が誰かに殴られたり、蹴られたり

するのは見たくなかったからだ。絶対、いい気分はしないと思う。

 「どうした? 来ないのか?」

 俯いて考え事をしている俺を見て不安に思ったのか立石はそう訊いて来る。

 迷うことはない。当然、行くつもりだ。空手の試合なんて間近で見た事がな

いので、かなり興味がある。それに立石が出るというなら尚更だ。だが、俺は

即答するのもなんか悔しいので多少勿体つける。

 「うーん。どうしようかなあ?」

 「え?」

 立石は置き去りにされた子犬のように心細そうな目で俺の顔を覗き込む。

 俺は心の中でほくそ笑んだ。

 相手を誘って、その答えが返ってくるまでの時間って、嫌な時間なんだよな。

分かる、分かる。

 ところで最近、ようやく分かったのだが、立石って良く言われる程《鉄仮面》

ではない。

 慣れた相手だと、ころころと猫の目のように表情が変わる。ただ、その変化

度が他の人間と比べると驚くほどわずかであるというだけ。

 最近、俺は一緒にいる時間が長いのでそれが分かってきた。立石の表情の変

化を読みとるにはその《瞳》と身体の雰囲気で読みとらなければならない。

 「嫌ならいいぞ。飯尾もそんなに暇じゃないだろうから」

 立石はつんとそっぽを向くとそう言い放った。

 あはは。すねている、すねている。

 「行くよ。行くって」

 「本当か?」

 立石の顔が一瞬、花が開いたようにほころぶ。出現頻度がかなり低いこの表

情は要チェックだ。この瞬間の立石の顔は本当に可愛くて綺麗だ。

 こんなことは当然のことながら口に出したことは一回もないが(恐らく未来

永劫口に出すこともないだろうが)、お世辞でもないし、おのろけでもない。

これは真実だ。

 「じゃあさ、明日、試合が朝十時からだからさ………」

 立石は堰を切ったように待ち合わせ場所をまくし立てる。

 俺はそれを苦笑いしながら聞いていた。

 たまには向こうから誘われるってのも悪くない。



 早朝の空気は凍てついたように透き通っていた。

 俺は白い息を吐きながら、バスを降りる。

 ここは船橋アリーナ。ここで空手の試合があるらしい。

 おそらく関係者か出場者だろうと思われる人々がその入り口に次々と吸い込

まれていく。

 入り口の所にある立て看板を見る。

 《W流空手道連盟第二十三回総合大会》

 《W流空手》というのは立石がやっている空手の流派の名前だ。この前、訊

いたのだが寸止めが基本の流派らしい。

俺はその立て看板を横目に入り口を通り抜けていく。

 入り口に受付があったが、そこも素通り。

 別に入場料や、入場資格があるわけでもない。俺はどうどうと場内に進入す

る。ただ、受付のところに居たいかつい顔のアンちゃんに睨まれたのが気にな

ったけど。

 会場に入る。

 意外に観客席に人がたくさんいる。おそらく出場者の知り合いや家族なんだ

ろう。子供連れが結構多い。

 試合会場はビニールテープで何等分かされ、いくつかのコートが出来ていた。

 俺は目を細めて立石の姿を探す。

 その時、ふいに誰かが俺の肩を叩いた。

 俺は叩かれた瞬間は多少驚いたが、こんなところで俺の肩を叩く人間は一人

しかいないと瞬時に判断し、ゆっくりと振り返る。

 「飯尾、遅かったな。来ないかと思ったぞ」

 立石は少し照れながら言った。

 俺は間抜けにも口をぽかんと開けながら、その姿を上から下まで眺めた後、

また下から上まで視線でなぞった。

 空手着姿の立石。真っ白い道着が目に眩しい。

 精悍でちょっと格好良いのが悔しかった。

 「なんだよ。じろじろ見るな」

 立石は居心地悪そうに身体を揺する。

 「いや、何だかんだ言って立石の空手着姿って初めて見るからさ」

 俺は自分の心情を隠すかのようにそう言う。

 「まあいいや」

 立石はかぶりを振る。

 「もうすぐ始まるんだ。あ。私は第三会場。こっちだ」

 立石はどんどん先に行ってしまう。

 俺は所在なさ気に着いていく。

 「お、おい。俺、ここに居ていいのかよ。部外者だぜ」

 一階の会場にいるのは、そのほとんどが空手着を着ている人間ばかりだ。

たまに私服を来ているのがいるかと思えば、それは審判か先生のどちらかだ。

 「大丈夫」

 立石はそう軽く言ってくれる。

 本当かよ。道行く人々にじろじろと睨み付けられる。

 やがてその第三会場とやらに着いた。会場にいるのがほとんどが女性だった。

なるほど、女子だけの《型》の試合なのか。考えたら当たり前だな。

 俺が立石の隣でそんなことを考えていたら、三人組の女子がとことこと、

興味深そうな目でこちらに近寄ってくる。見たところ中学生くらいだ。全員空

手着に身を包んでいる。

 「立石せんぱーい!」

 どうやら立石の道場での後輩の様だ。

 「なんだ」

 立石はそう冷静に応対した。《鉄仮面》もこういう時は凛々しく見えるから

不思議なものだ。するとその中の一人がわざとらしく手を上げて立石に質問す

る。

 「あのぅ、そちらの方はどなたですかあ?」

 「え?」

 立石は思いも寄らぬ質問をされたのでかなり戸惑っている。

 俺の方もいきなり話が振られたので戸惑った。

 「ああ、こいつは飯尾直斗だ」

 立石は俺を紹介した。

 しかし初対面の人間に「飯尾直斗だ」と紹介しても何者なのか分からないの

ではないか?

 それに《こいつ》はないだろう《こいつ》は。

 「ひょっとして彼氏ですかあ?」

 きゃっきゃっ言いながら女の子達はまるで珍しい動物でも見るかのように好

奇心に満ちた瞳を俺に向けた。

 「ばっ!」

 立石は真っ赤になって怒った。

 「莫迦なこと言ってないで、アップしてろ!」

 「あ、否定しないところがあやしー」

 「飯尾はただのクラスメイトだ」

 ちらりと俺の方を見て立石はそう言う。

 「なんで、ただのクラスメイトが立石先輩の試合を見に来るんですかあ?」

 三人組の追求は激しい。

 「私が誘ったからだ」

 立石も律儀に答えなくてもいいのに……。

 「一人だけ?」

 「い、一番親しいからだ」

 「やっぱり、彼氏だあ!」

 きゃああ!!

 と楽しそうに女の子達は奇声上げる。

 そして

 ぐ。

 と立石が詰まった。

 ほら、真面目に受け答えするからだ。

 「アップしろと言っているだろ! もう時間がないぞ!」

 立石は苦し紛れに話を逸らす。かなり見え見えだ。

 「はあい」

 三人は叱られてもちっとも堪えた素振りを見せずに、くすくす笑いながら会

場の端の方に去っていく。時折、俺の方を盗み見て楽しそうに笑いながら。

 「全く」

 立石は嘆息した。

 「後輩?」

 「ああ、困った奴らだ」

 そう言って嬉しそうに後輩達を見送る。

 こちらの道場では後輩から割と人望があるらしい。おまけにちゃんと会話を

している。

 学校では全く、見られない一面だ。

 そんな俺の視線に気が付いたのか、立石は戸惑ったように問う。

 「なんだよ」

 「いや、別に」

 俺は素知らぬ顔でとぼける。

 「だからじろじろ見るなって。調子が狂う」

 立石はそう言ってぷいと顔を背け、会場の方へと一人で歩いて行った。



 空手の《型》は何種類かある。

 そしてそれは難易度が違う。

 簡単なのはピンアン初段やピンアン二段という型。

 難しいのはセイシャンやチントウ等。

 これは見ている内に分かった。そしてその難易度別に試合をするらしい。

 試合は一度に二人ずつ《型》を演じ、それを審判たちが評点する。

 そして立石はチントウのグループに居た。

 壁に寄りかかりながらぼけえっと見ていた。

 内心ワクワクしながら。

 立石は緊張しているのか、していないのか、自分の試合の順番を待って身体

を軽く動かしている。

 立石の前に並んでいた人間たちが順調に消化されていく。

 やがて、

 立石の番が来た。

 もう一人の選手と二人で並ぶ。

 そして審判に礼をした後、足を肩幅に開いた自然体を取った。

 審判が合図をした。開始の合図だ。

 立石ともう一人はとたんに《型》を始めた。

 タイミングがほとんど同じで決められた動作をするので、ちょっとしたダン

スを見ている気分だった。

 立石の動きは素人目に見ていても力を入れるところは入れて、メリハリがし

っかりしていた。高得点は間違いなさそうだ。

 《チントウ》―――漢字に直すと《鎮闘》と書くらしいのだがその名の通り

他の型に比べると地味な型だった。他の型が躍動感あふれるイメージであるの

に対してこの《チントウ》は防御系の技が多く、静かなイメージがした。

 それだけに何か

 本当に空手をやっているんだ

 という気にさせる。

 ちょうど真剣勝負のプロレスで行われる寝技が、地味だけど《本物》を肌で

知らさせてくれるような感じだ。

 右正拳突きを最後に繰り出した後、残心をとりつつ、演武は終了した。

 立石ともう一人の競技者は礼をし、待機した。採点を待っているらしい。

 そうこうしている内に採点が告げられる。

 立石は8.8。

 もう一人は7.5だ。

 立石の勝ちだ。

 どうやらこれで立石は次の二回戦に進むことになるらしい。 

 ほっと肩の荷を下ろして戻ってくる立石を同じ道場のメンバー達が迎える。

そこで何か二言か三言言葉を交わした後、立石は俺の方にやってきた。

 「素人目に見ても上手かったぜ」

 俺は言った。

 「そうか?」

 立石はスポーツタオルで汗を拭きながら少し遠慮気味にそう答える。

 「たぶん、わたしは三回戦くらいが限界だろう。上手い奴は滅茶苦茶上手い

から」

 「ふうん。そんなもんなんだ」

 「そんなもんだ」

 俺はふと立石が使っているスポーツタオルに目をやった。

 あ、俺のあげたやつだ。

 俺の視線に気が付いた立石は恥ずかしそうに言い訳をする。

 「あ、使わしてもらっている。その、肌触りが良くてなかなか使いやすい」

 立石の視線が右往左往する。

 急にそわそわしてきた。そして思い切ったように口を開く。

 「ちょ、ちょっとトイレに行って来る」

 「ああ、行ってらっしゃい」

 こういうことを口に出して言うところが実に立石らしい。

 立石は飛び出すかのように会場の外に向かった。

 しかし、次の二回戦が始まっても立石は会場には戻って来なかった。

 なぜなら―――



 「足、捻った」

 会場内にある救護室で医師に手当を受けながら立石は苦笑いをするようにそ

う言った。

 立石と同じ道場の後輩の女の子達に報告を受けた俺は、驚いて駆け足で救護

室に飛び込んでいた。

 伸ばした右足首には真新しい包帯が医師の手で巻かれつつある。

 「どうしたんだよ」

 立石は凄まじく言い難そうに顔をしかめた。

 「階段から落ちて、足をくじいたんだ」

 「軽度の右足首靱帯損傷です」

 医師が言った。

 「え?」

 俺は仰々しい名前が飛び出たので一瞬驚く。

 「つまり捻挫です」

 「ああ、そう」

 ほっとした。いや立石が怪我している事実は真実なのでほっとすることなん

かないのだが、とりあえず、聞き慣れた名前が出たせいだろう。

 だが捻挫といえども馬鹿には出来ない。基本的には靱帯の損傷なのだ。

 現に立石は足を地面につくのもやっとの状態だった。

 立石は医師や道場の師範らと相談した結果、安静にするため今日はこれで引

き上げることになった。

 俺は立石が空手着を着替えるために部屋を追い出された。

 右足が使えないせいで着替え難かったのだろうか。

 待つこと十数分、立石は制姿服で現れた。

 学校でもないのに、制服で来たというところが実に立石らしい。

 師範に身体を支えられて出てくる。不自由そうだが、先程までのつらさはな

さそうだった。俺はほっとする。

 「大丈夫か?」

 俺は声をかけた。

 「ああ。とりあえず」

 だが、そうは言いつつも一人では歩くのもままならないようだ。

 立石の側で難しい顔をしている男、立石の道場の先生は俺に気づき、口を開

いた。

 「あ、キミ。立石君の友達かい?」

 俺は突然話しかけられたので多少緊張気味に首を縦に振る。

 「それじゃあ、申し訳ないのだが、立石君を自宅まで送り届けてくれないか?

 彼女一人では歩けないし、私もここを離れる訳にはいかないのでね」

 俺はその先生の目を見たまま、頷いた。

 だいたい今日は立石に付き合って来たわけだし、この後、用事が有るわけで

もない。

 俺は肯定の意味で立石に視線をやる。

 「悪いな、飯尾」

 立石はすまなそうな顔をする。あ、この表情も出現頻度が低い表情だ。要チ

ェック。

「気にすんな」

 俺はそう言って笑った。だが、この後、あんな冷や汗ものの展開が待ってい

ようとは思いも寄らなかった。



 「じゃ、帰るか」

 俺はそう言った。

 そう言ったはいいが、立石は入り口付近のベンチに座って所在なさ気に俺を

見上げていた。

 そうか、まともに歩けないんだったな。

 俺は立石に手を差し伸べた。

 立石は少し顔を赤くして俺の手を取る。

 立石は立ち上がった。

 だがそこまでだ。

 その状態では歩くことは出来ない。

 俺の背筋に汗が伝わった。

 これはひょっとして

 《肩を貸す》

 って行為をしなければならないのか?

 げげげ。

 だが、こんなところでうだうだしていても仕方がない。俺は勇気を振り絞っ

て左肩を差し出した。

 「ほら」

 「え?」

 「肩貸すよ」

 「え? え?」

 立石は真っ赤になってあわてる。

 「いい」

 「いい、じゃねえよ。歩けねえんだろ」

 「さあ」という感じで俺は腰を屈めて肩をかけやすくする。

 立石は観念したかのように右腕を俺の首に回した。

 立石の身長と俺の身長は大差ないので、どちらも不都合はなかった。

 立石の体温が服越しに伝わってくる。

 俺は立石の身体に電気のような異質感を感じた。例えていうならば磁石のN

極とN極のような反発を。

 それを感じる度に心臓はやばいくらいに跳ね上がる。

 立石の右脇腹が俺の左脇腹に密着している。服越しだが、立石の身体は思っ

たより柔らかい。俺の心臓のこの不自然なまでの鼓動がばれていやしないかと

思って俺は立石の顔を見た。

 顔がすぐ近くにある。たぶん十センチも離れていない。

立石は俺の視線を感じたのかこちらを見る。

 紅潮した顔で俺を上目使いで見る。

 俺は条件反射のように目を逸らした。とてもじゃないが立石の顔を正視して

いられなかった。

 ところで肩を貸したはいいが、このままだと立石の右腕だけに加重がかかる。

もう一ヶ所支点が必要だった。俺は立石の背中でぶらりとして所在がなかった

自分の左手を立石の腰に回した。

 びくっと立石の身体が反応する。頼む。そんなに過敏に反応しないでくれ。

こっちまで意識してしまう。

 緊張を紛らわす意味の軽口でも叩こうと思ったが、頭の中でいろいろなパタ

ーンを考えている内にその機を逸してしまい、結局俺達は無言のまま、出発し

た。

 俺は立石の歩調を見ながら、それに合わせて足を繰り出した。

 立石は自分の足に神経を集中しているかのように足下ばかり見ている。

 「……もう少し、足首の柔軟をしっかりやっていれば良かった」

 立石は独り言のように呟いた。

 「そうすれば靱帯が伸びる、なんてこともなかったんだ」

 俺は隣の立石の顔を覗き込む。

 「悔しい?」

 「え?」

 「試合、最後まで出来なくて」

 「いや、別に」

 立石は自分の心の中を探り込むようにして言う。

 「試合を途中で棄権したことに対してはあまり悔しくない。それほど試合に

賭けていた訳でもないし」

 そして言葉を継ぐ。

 「悔しいのはケガを未然に防げなかった自分の莫迦さ加減と、自分の身体の

中で言うことが利かない場所があるっていうことだ」

 立石は心の中のわだかまりが解けたことを喜ぶように晴れ晴れした顔で俺の

目を見た。

 「飯尾」

 「ん?」

 「心配したか?」

 「ん? ああ」

 「なぜ心配する」

 「え、なぜって……」

 今度は俺が自分の心の中に潜る番だった。

 なぜ、俺は立石がケガをして心配したのだろう。

 立石という知り合いがケガをしたから?

 何か違うような気がする。

 仮に本山や北村が同じケガをしたら俺は同じように心配するだろうか。

 この感じ、何か以前、プレゼントを選んでいるときの感触に近い。

 「すまん。変なことを訊いた。気にしないでくれ」

 立石はそう言って再び歩くことに専念するために下を向いた。

 その話はそれっきり立ち消えた。

 俺たちは再び、無言で歩き始めた。


後編へ続く