恋人レッスン 

第四話 後編

作 山下泰昌


 結局、俺達はタクシーで《北習志野駅》まで行き、そこから《薬園台》まで

電車に乗り、立石の家までやっとこさ辿り着いた。

 はじめの内、緊張しまくりだった俺達だったが、立石の家に到着する頃には、

身体が密着することに慣れたのか、さほど意識することがなくなっていた。

 立石の家はごくごく普通の一軒家だった。玄関の隣にガレージがあり、シャ

ッターが閉まっている。立石は俺に右肩を預けたまま、器用に左手でポケット

から鍵を取りだして、ドアを開けた。

 「ただいま」

玄関には誰もいなかった。だが、すぐに玄関正面にある階段の上から軽快な

音を立てて誰かが降りてきた。そしてその人物は立石の痛々しそうな右足首の

包帯を見て驚きの声を上げる。

 「どうしたの! お姉ちゃん!」

 美奈は目を見開いた。

 「何ですか。そんなに大声を上げて」

 とばたばた登場した―――おそらく、というか間違いなく―――立石の母親

も同じく目を見開く。

 ああ、親子だなあ。俺は冷静にそんなことを思った。

 「何でもない。ただの捻挫だ」

 立石はそう言って何気なく靴を脱いで家に上がろうとした。

 ところがバランスを崩して倒れかかる。

 俺はあわてて後ろから腕を抱えて転倒を防いだ。

 「ほらあ、何ともなくないじゃない」

 美奈は眉の間に皺を寄せて苦言を呈した。

 さすがに立石は何の反論も出来ずに美奈や母親の介助のされるままになって

いる。

 俺はというとぽつんと玄関に立ち尽くしていた。

 はっきり言ってこの家族に割り込む余地はなかった。一瞬感じる疎外感。

 とりあえず、自分の責任は果たした。俺の役割はここまでだ。

 そう思って小声で「それじゃ」と言って立ち去ろうとした時、立石の母親が

気が付いたように声をかけた。

 「ところで、こちらの方は?」

 美奈が弾けるように答える。

 「決まっているじゃない。飯尾さんよ!」

 「ああ、あの……」

 『あの』って何だ。『あの』って。

 一体、家庭内でどういう会話がなされているのか、そら恐ろしかったが、俺

はとりあえず、立石の母親に「はじめまして」と初対面の挨拶だけはした。

 すると彼女は玄関に正座して

 「いつもうちの娘がお世話になっています」

 と頭を下げ出す。

 俺もあわてて頭を下げ

 「こちらこそ……」

 とやりかえす。

 「ね、せっかくだからお茶でも飲んでいって下さいよ!」

 美奈が俺の腕を引っ張る。

 「い、いや、その」

 「そうですよ。真美をここまで連れてきてくれたんですから、お疲れでしょ

う。上がって下さい」

 「や、だけど、あの」

 ずるずるずる。

 そして次の瞬間、俺は立石家のリビングで紅茶をずずーっと啜っていたのだ。

 母と妹にひとしきりケガの様子を聞かれた立石は逃げるように自分の部屋に

服を着替えに行った。

 俺は満面に笑みを浮かべた立石の母親と妹の美奈の二人と対峙していた。

 緊張。はっきり言って何を話したら良いのか分からない。俺は必要以上に目

の前の紅茶に意識を集中させていた。

 「ところで、飯尾さん?」

 立石の母親がおっとりと声をかける。

 「は、はいっ?」

 声が裏返る。恥ずかしい。一体、俺は何をやっているんだ。

 「ご趣味はなんですか?」

 「は、はい、ギターを少し……」

 「あら音楽を」

 「いや、そんな大層なものではないですけど……」

 「ご兄弟は?」

 「あ、姉がいます。もう結婚して家にはいないですけど」

 「お父様のご職業は何を……」

 「お母さん!」

 隣に居た美奈が口を開いた。

 「何なのよう、根ほり葉ほり」

 「そんなつもりじゃありませんよ」

 立石の母親はそう言ってすました顔で紅茶を一口啜る。

 「もう、今度は私がお話する番!」

 美奈はそう言って目をきらきらと輝かせた。俺はその時、背筋に悪寒が走っ

たのを感じた。

 「お姉ちゃんのどこが気に入ったの!?」

 単刀直入。

 あまりにずばっと来たので俺の精神は一刀両断されてしばらく復活出来ない。

 「う、うん。なんでだろうね?」

 「ちっちっち」

 と美奈は人差し指を小気味よく振る。

 「そんな曖昧な言葉ごときで、この美奈さんはごまかされませんよ」

 そして身体をテーブルの上に乗り出さんばかりに傾けて来る。

 「ねえねえ、どこが気に入ったの? 顔? うん、確かにお姉ちゃん、素顔

は綺麗だもんねえ。お風呂上がりのすっぴんの顔が一番綺麗なんだからびっく

りするわ。飯尾さんも見た? え? あ、そうか。見たことあるわけないわよ

ね。うーん、じゃあ、性格に惚れた! とか。あのぶっきらぼうな話し方が好

きなんでしょう! え? そんな奴いるわけないって。うーん。それじゃあ……」

 怒濤のマシンガントーク。俺はかなりへなへなになる。その時、

 「美奈!」

 リビングの扉の所で立石が柱に寄りかかりながら、きつい目で睨み付けてい

た。

 立石はすでに少しだぶついた白のスエットを上下に着ていた。

 「いい加減にしなよ、あんた!」

 美奈はいたずらを見つかった子供のようにぺろっと舌を出す。

 「飯尾、私の部屋に行こう。ここに居たら大尋問大会だ」

 た、助かった……。

 俺はほうほうの体で立石の方に歩いていく。

 すると美奈はぱあっと顔を輝かせた。

 「あ、後でお部屋にお茶を持っていくからね!」

 え?

 また来るの?

 たぶんその時俺と立石は同じ顔をしたと思う。



 扉が開いた。

 「入っていいの?」

 俺は立石の後に付いて行きながら恐る恐る訊く。

 「当たり前だろう」

 立石は分かりきったことは訊くなとでも言いた気に俺を部屋へと促す。

 「へえ」

 部屋に足を踏み入れた俺はそう感嘆の声を上げた。

 立石の部屋は意外にごちゃごちゃしていた。かといって散らかっている訳で

はない。物がたくさんある、そういうことだ。

 部屋の色調は白と薄いピンクに統一されている。

 それは意識してそうしたのではなくて、自然とそうなってしまった。そんな

感じを受ける。

 部屋の中に充満している空気の匂いが甘く感じる。

 「おい、あまりじろじろ見るな」

 立石はそう言って部屋の正面の壁際に置いて有るベッドに腰をかけた。

 俺は部屋の中央にぞんざいに置かれていた座布団の上に胡座をかく。

 視線が妙な位置になる。立石がスカートでも履いていたら大騒ぎになるとこ

ろだ。

 「うん……。なんて言うか意外と女の子っぽい部屋だな」

 「そうか。……ちょっと待て、どういう意味だ?」

 立石は俺を軽く小突こうとするが、捻挫の影響で前方に体重をかけることが

出来ずに、それをあきらめた。

 女の子っぽい部屋と書くと語弊があるのかも知れない。

 もっと生活感のない無味乾燥な部屋を予想していたのだ。だが、その部屋は

暖かい感じのする部屋だった。

 「いや、俺、女の部屋に入るのって初めてだからさ」

 「私だって男を部屋に入れるのは初めてだ」

 立石は仏頂面で言う。

 その時、扉が軽く三回ノックされた。

 「お姉ちゃーん。入るよー」

 「どうぞ」

 美奈が御盆の上に紅茶カップを二つとケーキを二つ入れて持ってきた。

 「お茶、入りましたよー」

 そう言って俺達の前に盆を置き、自分はその脇で正座してにこにこ笑ってい

た。

 「はい! 召し上がれ!」

 美奈は甲斐甲斐しく俺と立石に紅茶とケーキを配膳する。

 「あ、ありがとう」

 「サンキュ」

 ずずず。無言で紅茶をすする二人とそれを見つめる一人。

 顔を上げると好奇心に満ちた目で座っている美奈が目に入った。

 「……なんだ、美奈。いつまで居る気だ」

 立石が言った。

 「いいじゃない。私だって飯尾さんに訊きたいこといろいろあるんだもん」

 そして間髪入れずに言葉を続ける。

 「ね、飯尾さん。お姉ちゃんになんて告白したの?」

 思わず口に入れた紅茶を吹きだしかけた。

 意志の力で必死に飲み込み、最悪の事態は免れたが。

 俺は目の前に座っている美奈の顔を見返した。

 なんて思ったことをそのまま、ずばずば言う娘なんだろうか。

 たぶん、友達も多いだろうが、その分、敵も多いに違いない。

 「ね。どんな風? やっぱり学校で?」

 その通りだよ。と思ったが当然そんなことを口に出すわけはない。

 「美奈!」

 立石は強い口調でそう言った。

 「飯尾が困っている。さっさと下に行け」

 「ええー」

 美奈は頬を膨らませて不満げな表情を作る。

 「もう少しお話したいなあ」

 「お前のは詰問しているって言うんだ。いいから、ほら!」

 「ふーん。お姉ちゃんそんなに二人っきりになりたいんだ?」

 「美奈あ!」

 立石がベッドから立ち上がり攻撃をしようとする素振りを見せた。美奈はあ

わてて立ち上がり、「今度教えてね」と捨てゼリフを残して部屋を出ていく。

 「ったくもう」

 立石は首を振る。

 「だけど、改めて思ったけど、元気な妹さんだな」

 「ああ、それだけが取り柄みたいな奴だからな。……飯尾、お前美奈に会っ

たことがあるのか?」

 やべ。マフラーの話のこともあるし、この前西船橋駅で会ったことは一応、

秘密の方が良いか。

 「いや、ほら、この前電話越しで」

 「ああ。そうか」

 立石は納得したらしい。俺は内心胸をなで下ろす。

 俺は改めて立石の部屋を眺め回した。

 本棚を見る。

 文庫物が多い。

 ジャンル的には幅広く、乱読型のようだ。

 氷室冴子、北村薫、栗本薫、京極夏彦、吉本ばなな、加納朋子、長野まゆみ、

田辺聖子、宮尾登美子、坂東真砂子、久保田弥代、ディック、ボルヘス、ブラ

ッドベリ、クリスティ、サガン……。

 何冊かは興味が引かれるのがあった。今度借りよう。

 本棚の下の方には大判の書籍が鎮座している。

 その一番端に分厚い書物らしからぬ本があった。

 アルバムだ。

 俺は何の気なしにそれに手をかける。

 「あ!」

 立石が声をあげた。

 そして右足をつけないせいか、まるでダイビングでもするように飛び込んで

来て、俺がアルバムを引き抜くのを阻止する。

 「こ、これは駄目だ!」

 「あ、ごめん」

 と言って一応手を引っ込めた俺だったが《駄目》と言われると見たくなるの

が人間の性分である。

 「でもさあ、アルバム見るのって、部屋に招待された時の定番だろ」

 「何が定番だ」

 立石はアルバムをまるで大事な赤ん坊のように両手で抱きかかえる。

 「それにさ、俺は今の立石、つまり高校二年の立石真美しか知らない訳じゃん。

それ以前の立石を知りたい、っていうのが人情ってもんでしょう」

 一体、何が人情だ、と自分で自分につっこみたくなったが、意外にも立石は

この訳分からない理屈でぐらつき始めた。そしてうんうん唸って悩んでいたが、

しばらくしてアルバムから数枚の写真を抜き取って、俺の方に放った。

 放った、と軽く書いたが、当然のことながらアルバムは分厚く、くそ重い。

 胡座をかいた俺の太股の肉にその角が見事に食い込む。

 「ぐ」

 と俺は一瞬呻いたが、なんとか堪えた。

 そしてぱらりとアルバムをめくる。

 写真は当然のごとく編年体で並んでいた。

 赤ん坊の頃の写真から始まって、幼稚園、小学校、と続く。

 赤ん坊の頃の写真は他の人間と同じだった。今の面影がほとんどないこの辺

りの写真はあまり面白くない。

 幼稚園から小学校にかけての写真はまさしく普通の女の子の写真だった。

 小学校の赤いランドセルを背負ってチェックのスカートを履いている立石は

可愛いかった。これは一枚、持って帰りたくなる。

 立石らしさが出てくるのは中学にあがってからだろうか。この頃になると眼鏡

をかけだし、着ている服も制服しかなくなっていく。空手の写真が増え出すの

もこの辺りだ。

 高校に入ってからの写真がところどころ抜けているのが妙に気になる。たぶん、

さっき立石が抜き取った奴だろう。

 何だ。一体、どういう写真がここに張ってあったのだろう。

 まさか、男と一緒の写真か。

 ……。

 ばかばかしい。

 なんで俺が立石の過去の男関係を気にしなければいけないんだ。

 ……。

 でも気になる。

 「立石さあ」

 「ん? なんだ?」

 「ここの抜けている写真、見せてよ」

 「駄目だ」

 即答された。

 「なんで?」

 俺はしつこく食い下がる。

 「駄目ったら駄目だ」

 「どうしても?」

 「どうしてもだ」

 「わかったよ」

 俺はそう言って立石を追求するのをやめた―――

 ―――ふりをした。

 立石がふっと気を抜いた瞬間、俺は立石が後ろに隠している写真に向けて飛

びつく。

 「もらったあ!」

 「うわぁ!」

 突然俺が飛びついてきたので立石は目を見開いて驚く。

 そして次の場面、

 俺は立石の右の掌底を顔面に食らって倒れていた。

 まさしくカウンター状態。

 俺はあおむけになって倒れる。

 「ご、ごめん!」

 殴っておいて、立石はそう言って俺の方へいざり寄る。

 「大丈夫か?」

 拳は見事に俺の人中(鼻と口の間)にヒットしていた。当然、顔面に強烈な

衝撃を受けた俺は顔を押さえて床に転がる。鼻血が出ていないのが不幸中の幸

いだ。

 「すまん、悪かった」

 「いや、別に……」

 立石に対して迂闊なことは出来ない。

 改めてそう認識した瞬間だった。



 その日、俺は風邪を引いた。

 朝、起きたときは三十八度の高熱だった。

 当然のごとく頭は重く、顔は熱っぽく、吐き気がするので学校は休んだ。

 皆勤賞を狙っているわけでもないし、熱を押してまでも学校に行くほど学校

が好きなわけでもない。

 俺は風邪薬を飲んでその日は寝ていた。

 午後四時にもなると薬が効いたのか、それとも身体の回復力が勝ったのか、

ほぼ完全復調した。

 ともかくさすがにずうっと寝転がっていたので身体の節々が痛くなっていた

俺は、起きあがりTVゲームをやったりギターを弾いたりして、学校がある

日に休むという背徳感を思う存分に味わっていた。といっても室内でだが。

 しかしそれも次第に飽きてくる。

 あくびをした。少し息苦しい。

 ずっと閉め切りだったせいで部屋の空気が澱んでいるのだ。

 俺は部屋の空気を入れ換えるために立ち上がり、窓を大きく、がらと開けた。

 新鮮な空気とともに寒気が室内に侵入してくる。

 次第に部屋の中は寒くなってきた。だが、空気が入れ替わるまでは我慢しな

くては。

 これくらいでいいかな。胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ俺は、窓を閉

めかける。

 その時、俺は目の端に信じられないものを見た。

 寒風吹き荒ぶ中、俺の家の前でたたずむ一人の女学生。

 野暮ったい眼鏡とおさげ。

 「立石ぃ!」

 俺は思わず声をあげる。

 立石は俺の声に気付き、顔を上げた。

 「何やってんだよ、そんなとこで!」

 立石は戸惑ったように口を開く。

 「いや、その、大事な。連絡事項の。プリントが。渡さなくちゃと……」

 なんだか説明が要領を得ない。

 「そんなところに突っ立ってないでさ、中に入れよ」

 「良いのか?」

 「良いも悪いもないだろうが」

 俺は窓を閉め、寝間着姿で階下に降りていく。そして玄関の扉を開けた。

 そこには寒そうな格好の立石が立っていた。

 「お邪魔する」

 立石はそう言って俯いたまま入ってきた。

 「あらあら、どなたかしら?」

 台所からどたどたと重い足音と共にそんな声が聞こえてくる。

 俺は舌打ちした。

 お袋だ。

 お袋は立石の姿を見て目を丸くした。

 「あら。女の子なの?」

 「は、はじめまして」

 立石はほとんど目も合わせない状態で頭を下げた。

 「あらあ」

 お袋は頭を下げた立石と苦虫を潰したような顔をしている俺とを交互に見つ

めながら目を丸くしていた。

 「お見舞いかしらあ。直斗にお見舞いなんて初めてね」

 「学校で重要なプリントを配ったんだって。立石はそれを持ってきたんだよ。

上がれよ」

 俺は立石を促す。

 「いや、私、ここで……」

 「いいから。こんなところで話してたら、俺、また風邪がぶりかえしちゃう

よ。ほら」

 「そうよ。お上がりなさい。お話聞きたいわあ」

 俺は顔を歪ませてお袋を振り返る。

 「なによ。その顔は」

 「お袋、なんか話す気なのか?」

 「だって」

 お袋はそう言って楽しそうに手を組んだ。

 「直斗に女の子が訪ねてくるなんて初めてですもの」

 俺は天を仰いだ。

 ああ、単なる野次馬だ。

 俺はお袋に誘われてリビングに入ろうとしている立石を制して、俺の部屋へ

と誘導する。

 立石はおろおろと為すがままだ。

 「あらあ。直斗、どこに連れていくのよ」

 「俺の部屋」

 「駄目よ。こっちの部屋にしなさい」

 「なんでだよ」

 と言ったが俺はその返事を待たずに立石を階上の俺の部屋まで引きずってい

った。

 後ろから「まったく、もう」と嘆息するお袋の声が聞こえてきたがそれは無

視する。

 「い、いいのか?」

 立石はお袋の機嫌を気にする。

 「いいの、いいの。いつものことなんだから」

 俺は自分の部屋の扉を開けた。

 その段になって何かやばいものは目の付くところに出ていないかどうか気に

なった。

 本棚の一番右端。布団の下。押入。

 うん、大丈夫だ。

 俺は一瞬で部屋のそこかしこをチェックして、立石を部屋の中に促した。

 立石は珍しいものでも見るように視線をあちらこちらに配っている。

 「『あんまり、じろじろ見るなよ』」

 俺は立石の声色を真似てそう言った。

 立石は不機嫌な顔で俺を見返す。

 「ふん」

 俺の部屋のど真ん中にはコタツがある。

 俺はさっさとその中に入り、立石にもその一辺を勧めた。

 立石はスカートを気にしながらコタツに入る。

 一息ついた。

 「もう、風邪の方は大丈夫なのか?」

 「ああ、ばっちり。さっきまでゲームやっていたんだ」

 「そうか」

 立石はほっとしたように言う。

 「私はまた、昨日、殴ったのが原因かと思った」

 「え? ああ。あんなのはもうとっくに回復しているよ」

 俺はそう言ってから、特に意味はないけど右腕で力瘤を作る。

 「それはそうと、立石の方はどうなんだよ。捻挫は?」

 「ああ」

 立石はそう言って右足をコタツから引きずり出した。

 右足首には相変わらず痛々しく包帯が巻かれていたが、立石の表情や、右足

首のかばい方から察するにだいぶ良くなっているようだ。

 「そりゃ、まだ痛むけど、足がつけないほどじゃない」

 にこりと立石は笑った。一瞬だけど。

 そして再び俺の部屋をじろじろと見回す。

 立石の視線は俺のCDラックで止まっていた。

 俺のCDコレクションはほぼカラオケで歌ったアーティストのものだ。

 GLAY、サザン、B’z、ラルク、あと布袋とか……。

 その中で一つだけ異質なCDがあるのを立石は目聡く見逃さなかった。

 「へえ。飯尾って白原雪乃、聴くんだ?」

 白原雪乃。アイドルのCDだ。

 ぐっ、と俺は詰まる。

 「別にいいだろ? 好きなんだからさ」

 俺はひらき直った。

 「悪いなんて言ってないだろ。いや、私も好きなんでさ……」

 「え?」

 俺は聞き返す。

 「今度、貸してくれ」

 「今度と言わず、今日持っていけばいいじゃん。ほれ」

 俺は立石にCDを渡す。渡したのは『ONE YEAR』という名のアルバ

ムだ。企画物のCDで結構、俺のお気に入りだったりする。

 「あ、サンキュ」

 立石は素っ気なくそれを受け取る。

 CDを持ってきたカバンに仕舞いつつ、立石の目はさらに俺の部屋を探る。

 俺はその視線を追う。

 立石の視線はしばらく蠅のようにふらふらしていたかと思うと、部屋の隅に

立てかけて有る物の上にぴたっと止まった。

 ギターだ。アコースティックギター。

 立石は興味を覚えたらしく、コタツの中から身体を伸ばしてそれを引っ掴む。

 俺の目を伺いながら、ギターを抱えてもっともらしく弾く立石。

 当然のことながら左手はコードなど押さえていないし、右手は全部の弦を弾

いただけ。

 二、三回右腕をストロークした後、立石は俺にそのアコギを差し出した。

 「飯尾、弾けるのか?」

 「当然だろ」

 弾けなければ何のためにギターが置いて有るんだ。これは決して部屋の飾り

ではない。

 俺はアコギを懐に抱えた。うん。しっくり来る。

 打楽器、鍵盤楽器、管楽器と楽器は数あれど、俺はこの弦楽器であるギター

が一番好きだ。だってこう身体の内側に抱きかかえられることが出来るから。

何か一番暖かい楽器のような気がするから。

 俺はコードのFを押さえる。そして弦を指で次々に弾いていく。

 アルペジオ。一音が一音前の音に重なるように響かせていく。

 C、C7、F……

 俺はBeatlesの『Hey Jude』を弾き始めた。スタンダードナ

ンバーだけど。そして少し遠慮気味にボーカルも付ける。

 「へえ」

 立石は珍しいものを見るように食い見る。

 感心しているんだと思う。たぶん。

 ワンコーラスだけ歌ったところで照れくさくなって俺はお茶を濁すように、

弦を適当にがしゃがしゃかき鳴らしてギターを置いた。

 ふと立石を見るとあからさまに不満そうな顔をしている。

 「おしまい、おしまい」

 二人っきりの部屋でギターを女に聴かせている男、という構図が恥ずかしく

なったのだ。今時、こんなのドラマでもない。

 しばらくぶーたれていた立石は三度、部屋の中をきょろきょろ見回す。

 俺は立石の視線を追いかける。

 壁に貼って有るポスター。すすけた天井。雑然とした本棚。CD入れっぱな

しのコンポ。TV。サッカーゲームのパッケージが出たままのゲーム機。敷い

たままの布団。引き戸が壊れている押入。いたづら書きのある机……

 見られるのが恥ずかしい。自分の部屋って俺の心の中そのまんまみたいだ。

趣味も性格も短所も全てさらけだした恥ずかしい場所。それは自分の心と同義

だと思う。

 その心をさらけ出している訳だ、俺は立石に、今。

 ということは立石もこの前は俺に《心の中》を見せてくれたのだろうか。

 その時、俺はくしゃみをした。

 鼻水も出てきたのであわてて鼻をかむ。

 「風邪、ぶりかえしたんじゃないのか?」

 立石が冷静にそう分析する。心配しているんだと思う。たぶん。

 「いや、大丈夫だよ」

 俺はそう言って鼻をすすった。

 「これ以上長居しても悪いから、帰る」

 「そう?」

 立石はすくっと立ち上がった。

 「それじゃあ」

 俺は右手を上げてそれに答えた。

 「あ、CD有り難う」

 「あげるんじゃねえぞ。ちゃんと返せよ」

 「当たり前だろう。また殴るぞ」

 そう言って立石は右拳を繰り出す真似をした。悪戯する子供のような顔で。

 そしてその構えをふっと解くと、一瞬淋しそうな顔をして、

 「それじゃあ」

 ともう一度言った。

 そして立石は扉の外に消えていった。



 立石を見送った俺はそそくさと自分の部屋に戻る。今まで安静にしていたの

に(ゲームとかはしていたけど)急に動いたりしたので、少し熱が上がったよ

うな気がする。

 俺は部屋に戻ると再び布団の中に潜り込んだ。これでまた風邪がぶりかえし

たりしたら本当にシャレにならん。

 と、その時。

 ぴんぽーん。ぴんぽーん。

 ウチの玄関の耳障りなチャイムが鳴った。

 俺はその音を遮断するため、布団を頭まで被る。

 だが、チャイムはしつこく鳴り続け、布団を被った俺の耳にも響いてくる。

 お袋はどうしたんだ、お袋は。

 すると「ああら、直斗ー? 私、今トイレ入っているからあんた出てよー」

という声が大きく聞こえてきた。

 ばかやろう。そんなこと大声で叫ぶな。

 俺は嫌々、布団から這い出ると再びどてらを着込み、階下へ降りていった。

ぴんぽーん。

 「はいはーい」

 俺はそう言って玄関の扉を開けた。

 するとそこには立石がいた。

 俺はいささか驚いた。

 一体どうしたってんだ。

 立石は息せき切って走ってきたのか、呼吸を荒くして立ちすくんでいる。

 「すまん、飯尾……」

 「え?」

 何だろう。こんな真剣な顔で立石は一体、何を言おうとしているのだろうか。

 『すまん』の後に続く言葉は一体、何なのだろうか。

 俺はかなり緊張しながら、立石の次の言葉を待った。

 すると立石は呼吸を落ち着かせて、一度唾を飲み込んでから口を

開いた。

 「……プリント渡すのを忘れていた」


あとがき

 空手の描写はもう十五年前以上の記憶を頼りに書きましたので、多少今の現

状とそぐわない描写があるかも知れません。だいたい私が空手をやっていた時

は《メンホー》や《拳サポーター》が出始めたくらいの時だったんですよ。当

然のごとく防具なんてありませんでして、いくら寸止めといえどもそこは人間

のやること。試合会場のそこかしこで流血している人たちがおりました。

 ところで―――

 今回、話の中で《お遊び》をしております。

 飯尾の部屋にあったCDのアーティスト名の中の一人は私がよくお伺いする

HPのてらおかけんじさんの《らぢお・とーく》という話の中に登場するアイ

ドルの名前を使わせて頂いております。

 キャラクターの使用を快諾して頂いた、てらおかけんじさん。

 ありがとうございます。

 また、こんな感じの《お遊び》は、してみたいですね。

 今回もK女史、しまじろうさんらに参考になるお話を頂きました。ありがと

うございます。



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