恋人レッスン 

第五話 チョコレートの貰い方

作 山下泰昌


二月十四日 八時四十五分 教室

 朝のホームルーム前の教室は、いつも通りざわついている。

 だけど、良くマンガなんかで描かれるように特別なざわつきはない。

 と、思う。

 でも、やっぱり、妙な緊張感はあるような気もする。

 俺が勝手にそう思っているだけかも知れないけど。

 比較的、女は女同士。男は男同士で固まっているようだ。これも俺の主観か

な。

 「おっはー!」

 何にも悩みがなさそうな声を上げて、一人の男が近づいてきた。

 「そのすぐ流行語使うの、やめろ。お前に似合わん」

 俺がそう返すと、ヤツは仏頂面をして無言の抗議の視線を俺に向けた。

 言わずと知れた北村だ。

 「どうした? 元気ないじゃん」

 「お前が明るすぎるんだよ!」

 俺は毒づく。

 「だってさ、今日はバレンタインだぜ! 何かわくわくするよな」

 「お前にチョコをくれる奇特な女子がいるわけねえだろが」

 「そりゃあ、そうだとは思うけどさ……」

 と北村は一度、言葉を切ってから、

 「でも、何パーセントかでも女の子から告白される可能性のある日じゃん、

今日は。その雰囲気が楽しいじゃん」とのたまう。

 ああ、ポジティブシンキングな奴だ。俺は少し北村を見直した。いや、もち

ろん良い意味で。

 「でも、今年は飯尾クンもチョコ一つはゲットできそうですな」

 「なにが?」

 俺は怪訝な顔で北村を見返す。

 「なにって、ほら、あれだよ、あれ」

 その時、教室の前方の扉から、やたら存在感がある女子が入ってきた。

 その、北村言うところの、あれ、だ。

 ざわつく教室に視線すら動かさないその孤高の人は、すっと背筋を伸ばして

自分の席まで一直線に歩を進めると、いきなり着席した。

 立石真美である。

 いつもは俺と目を合わせて挨拶くらいはするのに、今日は目すら合わせない。

かなり堅固な態度だ。

 「無理だろ」

 俺は呟くように言う。

 「立石はどうしたってバレンタインってガラじゃないよ。それにもう知って

いると思うけどさ……」

 俺はそこで一旦言葉を区切る。次の言葉を強調するためだ。

 「俺はチョコは嫌いなんだ。貰わなくても淋しくも悔しくもないから安心し

てくれ」

 そうなのである。

 はっきり言って、俺はチョコレートが大嫌いなのだ。

 手渡された瞬間、ばきっと二つ折りにしてすぐさまバッグドロップ。相手

(?)が朦朧としたところを、すかさずトゥホールド(?)を敢行し、壁に叩

き付け、粉々になるまで踏みつけたくなるほど嫌いである。

 まるで悪魔の食料かと見紛うばかりの、あの漆黒の色調。

 とても人間世界の食糧の様に思えない。

 以下、その理由。

 正直に言うと昔から嫌いではなかった。小学生の頃、そう三年生の頃までは

大好きだった。

 だが、とある日のこと、俺の親父がパチンコの景品で山ほどのチョコレート

を買ってきたのに起因する。

 喜び勇んだ俺と姉貴は食って食って食いまくった。姉貴はさすがに一日で厭

きたけど、かなりしつこい性格の俺は二日目も三日目も食いまくった。

 それがいけなかった。

 四日目にして俺は熱を出した。

 三十九度の大熱だ。

 俺はそれから三日間寝込んだ。

 チョコレートとの因果関係は分からない。だが、その時、俺の心の奥底に、

チョコレート=身体の具合が悪くなる、という公式が出来上がってしまったのだ。

 それ以来、チョコレートは嫌いである。

 絶対に食わない。

 そう、未来永劫だ。

 俺がきっぱりそう言うと、北村は

 「つまんねえやつ」

 と言って目を眇める。

 というわけで、二月十四日。

 俺にとっては史上最悪な日であると思われるのだが、今のところ実害を被っ

たことはない。

 つまり、今までチョコを貰ったことがないのだ。

 ま、くれるような女性がほとんどいないってこともあるし、昔から知ってい

るクラスメイトなんかは、俺がチョコ嫌いと知っているので、義理チョコすら

くれない。

 意外にも二月十四日は俺にとって至って平穏な一日なのだ。



二月一日 午後七時十分 立石邸

 バレンタインより遡ること十三日前。

 「ただいま」

 空手の練習帰りの疲弊した立石真美は、抑揚のない声でそう言うと、靴を無

造作に脱ぎ捨て、玄関を上がった。

 そしてそのまま、台所に向かうと冷蔵庫から牛乳を取りだし、パックのまま

飲み出す。

 「お姉ちゃん、お帰りなさい!」

 ドアの閉まる音を聞きつけたのか、どたどたと階段から降りてきた美奈が

開口一番、そう言った。

 「うん」

 口が牛乳で塞がって言葉が発せられないせいで、真美はそれだけ言う。

 「ねえ、お姉ちゃんどうするか決まった?」

 「?」

 美奈のその質問に真美は怪訝な顔で答える。

 相変わらず美奈は自分の頭の中だけでモノを喋る。

 真美は嘆息した。

 「何を『どうする』んだ?」

 「やだなあ、もう決まっているじゃない」

 何がどうなると『決まっている』ことになるのだろうか。真美は美奈の論理

の飛躍に苦しむ。

 「二月と言ったらバレンタイン。バレンタインと言ったらチョコレートじゃ

ない!」

 ああ、そうか。

 と真美は気付く。

 そう言えば、デパートやコンビニのそこかしこでバレンタインコーナーが

敷設されていたな。

 「で、どうするの、お姉ちゃん? 飯尾さんにあげるんでしょ。今回も手作

り? それともどこかで買ってくるの?」

 「それなんだけどな」

 真美は紙パックの牛乳をテーブルに置いて、美奈の方に向き直った。

 「今回は、チョコレートあげないでいようと思うんだ」

 真美がそう言ってから、しばらく間が空いた。

 そして美奈が口を開く。

 「な、なんでよう!」

 そして大袈裟に身振り手振りを加え、

 「バレンタインよ! 一年に一回よ! この日を逃したら、次は三百六十五

日待たなくちゃ次のバレンタインは来ないのよ!」

 と、至極当たり前のことを美奈は並び立てる。まあ、それだけ興奮している

と言うことだろう。

 真美はそんな美奈を冷静に観察しながらゆっくりと口を開いた。

 「考えたんだけどさ、バレンタインってさ、何でチョコをあげるんだ?」

 美奈はうんざりした顔で「出た。変な理屈攻撃」と言って肩を落とす。

 「いや、別にそれほど変な理屈じゃない。お菓子屋の販売戦略とかそういう

ことを言いたいんじゃないんだ。私が思うにさ、バレンタインって女の子側から

男の子側におおっぴらに告白できることが許された日だろ。チョコという媒体

を通して」

 「……ふん。その通りだけどさ」

 「ということはだ。すでに付き合っている男女間でチョコをあげるというの

はおかしくはないか? 告白するという大前提が消えているのだから、それは

もうすでに義理チョコ以外の何ものでもない。私は義理チョコなんてあげるつ

もりはない」

 「それは、あれよ。愛を確かめるってやつよ」

 「そうか? あげる方も貰うほうもそれほど嬉しそうに見えないが。あくま

でも私の視点だけど」

 「……確かにそんな気がする」

 「だろ」

 「でも、さ。バレンタインってさ、普段ただのクラスメイトが女性と男性に

なる日じゃない? そういう雰囲気だけでも楽しいと思わない?」

 美奈はどこかで聞いたような理屈を並び立てる。

 「女子校のお前に言われても説得力がない」

 ぐ、と美奈は詰まる。

 「学校が駄目でも通学電車があるもん! 塾があるもん!」

 「誰か、あげたいヤツがいるのか?」

 さらに「……いない」と詰まる美奈。

 「でもでも、さ。お姉ちゃん、ライバルいないの? もし、飯尾さんにチョコ

をあげる女の子がいたら、差を付けられちゃうよ」

 真美は一瞬、考えるような素振りを見せたがすぐに

 「いない」

 と断言した。だが、その直後、心の中で「たぶん」と付け加えたが。

 「そんなライバルはいないし、それにチョコをあげた、あげない、で差を付

けられるようなことじゃないと思う。だから問題ない」

 「うーん。そうかなあ?」

 美奈は腕を組んで頭を振る。

 真美はそんな美奈を横目で見ながら、言葉を続ける。

 「と言うわけで、すでに付き合っている飯尾にはチョコをあげないで置こう

と思うんだ。クリスマスの時とは理屈が違うんだ。あの時は本当にプレゼント

をあげたいと思ったけど、今回はあげるものが『チョコ』って決まっているだ

ろ。そんなものをあげよう、って気が起きないんだ。そんな気持ちであげたら

逆に失礼だと思う」

 「なんか、納得いかないなあ。なんか、上手く丸め込まれた気がするなあ」

 美奈はそう言ってしきりに首を傾げる。

 しかし、そこで真美は、はたと思った。

 とは言ったものの、考えたら自分から好意の気持ちを伝えたことがない

 と。

 やはり何だかんだ言っていて、他のクラスメイトと違い、気さくに話しかけ

てくる飯尾には好感はある。

 そもそも告白は飯尾の方からだったし、かなり頭が混乱していた真美は『異

性と付き合ったことがないから』などというかなり失礼な理由で受諾したので、

飯尾側に真美の気持ちは全く、伝わっていないはずだ。

 やっぱり、最初のバレンタインぐらいはチョコを渡すべきなのかな?

 真美は自ら創り出した理屈の迷宮に巻き込まれてしまっていた。



二月十四日 午前九時四十分 教室

 全校に響きわたるチャイムの音が、一時間目の終了を告げる。

 安堵の空気が流れる教室の中を俺はそそくさと突っ切った。

 便所に行くためだ。

 朝、出掛けに牛乳を飲み過ぎたせいか妙に小便が近い。

 で、教室の扉を抜けるには立石の机の隣を通らなければならない。

 いや、別に立石の席の隣を通らなくても行けるんだけど、そこはそれ。無視

するわけにもいかないだろう。付き合っている人間としては。

 「よう」

 俺はそう声をかけた。

 すると立石は、

 がたっ

 と音を立てて、立ち上がり、

 「な、なんだ?」

 と訊く。

 えらく、ぎこちない。

 「い、いや、別に」

 「そうか」

 立石はほっとしたように着席する。

 それで終了。

 立石は再び、文庫本に没頭する。

 俺はその脇で所在なさげに立ち尽くす。

 いや、俺も別に用はないから、いいんだけどさ。

 俺はそんな立石を横目に見ながら、教室の外に出ようとした。

 すると、

 「あ、飯尾」

 立石に呼び止められた。

 立石は相変わらず視線を文庫本に落としたままで、右手をカバンにごそごそ

と差し入れた。

 瞬間、俺は緊張した。

 ちょ、ちょっと待てよ。こんな教室のど真ん中で渡されるのか?

 別に隠す事じゃないけど、衆目の中では、少し恥ずかしい。

 「はい」

 そう言って手渡されたのはCDだった。

 「え?」

 立石は眼鏡をかけ直して、俺を見上げた。

 「サンキュ。なかなか良かった」

 そして三たび、本の世界に戻っていく。

 それはこの前立石に貸した、白原雪乃のCDだった。

 「あ。ああ。どうも」

 俺は口ごもるようにそう言うと、すごすごと自分の席へ戻る。

 返されたCDをカバンの中に入れる。

 ちぇっ。

 チョコくれるのかと思ったのに。

 俺はそう心の中で不満をたれる。

 しかし、そこで、はっと我に返った。

 なんだ。俺。チョコいらねえとか言っておきながら、何期待してんだ。

 チョコレートは嫌いなんだから、必要ないのに。

 俺はふっと振り返る。

 そこにはそんな俺の心を見透かしたような視線を送る、北村と本山がいた。

 俺は異様なほど不自然にヤツらから視線を逸らす。

 そして前を向く。

 チョコレートを貰おうと期待していた己の心を恥じた。そして、立石はそん

なガラじゃないんだし、俺と立石の関係もそんな甘いモノではないのだから、

と言い聞かせる。

 そう。俺と立石の関係はもっとクールでドライなのだ。

 始業のチャイムが鳴った。

 はっとした。

 大事なことを忘れていたことに気が付いた。

 俺はあわてて、教室から飛び出る。

 便所に行くのを忘れていたのだ。

 かくして俺は二時間目の授業を遅刻することになる。



二月三日 午後三時三十分 立石邸

 遡ること十一日前。

 「ええとー。何がいいかなあ。このマンディアンっての楽そうよね。でもも

うちょっと頑張ってシャンパントリュフとか。ああ、このアーモンドロックっ

てのも美味しそう!」

 薄ピンクのエプロンを付けて、デザートのレシピ本を見ながら、やたら張り

切っている美奈に真美は恐る恐る訊く。

 「あのさ、お前、何を作るつもりなんだ?」

 「何? ってチョコに決まってるでしょう!」

 「チョコなんて、溶かして型取りをして冷やせばそれで終わりなんじゃない

のか?」

 真美のその言葉を訊き、美奈は眉をしかめる。

 「何、お姉ちゃん。今時小学生だってもう少し凝ったものを作るわよ! 実

際、いとこの小学五年生の美樹奈ちゃんなんてチョコレートケーキを作るって

言ってんだから!」

 「そ、そんなもんなのか?」

 思ったより大変そうなので少々うんざりする真美。だが、そんな姉を見てす

かさずフォローする美奈。

 「大丈夫よ、大丈夫。今日はあくまでも本番に備えての練習日。備え有れば

憂い無し。努力に勝る者は無し。クリスマスの時だって一ヶ月の猛特訓に耐え

たお姉ちゃんなんだから問題ないわよ」

 そう、やたら持ち上げられても、さらに不安になるだけの真美であった。

 結局、立石真美は「せっかくだから」という美奈の根拠のない論理で、自ら

の理屈の間隙を突かれたような格好になって、一緒にチョコレートを作ること

になってしまったのである。

 あげる相手がいないのに作る美奈とあげる気がないのに作る真美。

 最も菓子業界に踊らされている姉妹と言えよう。

 「簡単なヤツがいいな。あまり凝りすぎても私がついていけない」

 「そう? うーん、それじゃ、これはどう?」

 美奈はそう言ってレシピ本を真美に見せる。

 そこには『ナッツをいっぱいのせたチョコは、オシャレな木の葉の形!』と

書かれている。

 「『木の葉チョコ』? 難しそうだな」

 「大丈夫よ。大丈夫。さあ、レッツ、トライ!」



   一時間後。

 「美奈?」

 「なに? お姉ちゃん」

 「何で、チョコが白っぽくなるんだ?」

 「さあ?」

 二人の目の前に並べられた、手順通り作られたはずの木の葉チョコはレシピ

本の写真とは似ても似つかぬ貧相な出来上がりになっていた。

 ツヤがなくて、あまり見栄えが良くない。

 「これでいいのよ。ほら、本の写真って綺麗に見えるじゃない」

 美奈はそういうが真美はまだ納得の出来ない表情だ。

 「ちょっと貸せ」

 真美は美奈からレシピ本を奪い取ると、木の葉チョコレートの項を熟読する。

 「……美奈。この『テンパリング』って何のことだ?」

 「さあ?」

 真美はさらに本を読み進める。

 「おい、『チョコは溶かして固めるだけではダメ。温度調節が必要』って書

いてあるぞ」

 「ふうーん」

 「『ふうーん』っておい、美奈。お前、良く読んでいないだろ」

 美奈は肩をすくめて可愛く舌を出す。

 「駄目なのよ、私。『習うより慣れろ』タイプなの」

 「マニュアル読まないでいきなりパソコンを起動させるタイプだな」

 累々と並んだ失敗作を眺めた。

 実に壮観な眺めだった。

 しばらくチョコレート三昧だな、これは。

 真美は深くため息をついた。



二月十四日 午後十二時四十分 教室

 三回の授業と二回の休み時間が過ぎ、最も長い休み時間がやってきた。

 つまり昼休みだ。

 俺は蓄積されたいらいらを取るように、背伸びをすると、辺りを見回した。

 学食に一緒に行く仲間を物色する。

 まず初めにすぐ近くの席の北村が目に入る。

 「北……」

 呼び掛けて、すぐ止めた。

 「ふぁに(なに)?」

 北村はすでに弁当を広げて、飯を頬張っているところだった。

 「すまん。何でもない」

 次は本山だ。

 「本……」

 言いかけて、すぐ止めた。

 別のクラスの女の子に呼び出されて廊下に出ようとしているところだった。

 本山はちゃらんぽらんな外見をしてはいるが、意外とモテるのである。

 となると、後は立石だ。

 「立……」

 立石はすでにいなかった。

 いつもはそのまま教室で弁当を食べているのに、今日はなぜか、その席に姿

が見えない。

 俺は肩を落とした。

 しょうがない。

 今日は一人で淋しく、飯を食うか。

 俺は学食に向かうべく、とぼとぼと、教室の出口から廊下に出た。

 「おい」

 突然呼び止められる。

 立石がいた。

 立石は弁当箱を抱えて廊下に直立不動で待ちかまえていた。

 「たまには一緒に食おう」

 立石は視線を逸らしながら、言う。

 「あ、ああ」

 俺は突然の、それでいて慣れないその状況にうろたえながらも同意する。

 なぜ?

 どうして?

 やっぱりバレンタインだからか?

 俺は学食に向かう道中、頭の中をそんな疑問符でいっぱいにしながら、歩い

ていた。

 対する立石は涼しい顔でしっかりと正面を向いたまま、歩いている。

 学食に到着した。

 席取りは立石に頼み、俺は飯を買いに行く。

 俺は芸術的に薄いロースカツが付いているB定食を選択し、立石が待ってい

る席へと移動する。

 立石は弁当を広げて、だが、箸は置いて、俺を待っていた。

 「いただきます」

 俺たちは、はたからみても滑稽なほど礼儀正しくお辞儀をして、飯を食べ始

めた。

 「で、どういうことなんだよ」

 俺は味噌汁を啜りながら言う。

 「なにが、だ?」

 立石はアスパラのベーコン巻きを口に運びながら問い返す。

 「『何が』じゃないよ。立石が昼飯に俺を誘うのって初めてじゃないか」

 すると立石は視線を落とし、しばらく卵焼きと格闘していたかと思うと、こ

う言った。  「たまには、そういうときもある」

 「今日、二月十四日に?」

 「何が言いたい」

 立石はじろりと俺の顔をねめつける。

 「いや、別に」

 「なら、いい」

 そして、黙々と食物を胃に流し込む作業に集中する、俺と立石。

 ……。

 至極、平穏な時間が流れた。

 弁当を食べ終えた立石が、箸を箸箱に仕舞い、意を決したように息を吐いた。

 そして右手をポケットに突っ込み、ごそごそと何やら取りだそうとしている。

 あ、今度こそチョコかな?

 俺が一瞬、そう思った。 

 その時、校内放送が流れた。

 それは『各クラスの保健委員は至急職員室へ向かいなさい』という内容の放

送。

 その時の俺は、かなり嫌そうな顔をしたに違いない。

 そう。俺は、とある二人組の陰謀もあり保健委員なんてものをやっているの

だ。

 目の前に残っている、B定食の残りを急いで平らげると急いで立ち上がる。

 「悪ぃ。呼び出されたんで、先行くわ」

 「ああ」

 立石は一瞬、淋しそうな顔を見せ、頷く。

 俺は多少、後ろ髪をひかれる思いで、その場所を立ち去った。



二月十日 午後二時 立石邸

 真美と美奈、二人の母である美紀子は台所を占領する二人の娘の後ろ姿を見

ながら、不安顔であった。

 すでに台所の至る所は、チョコレートで汚れており、使った機材は、流しや

テーブルの上に散乱している。

 なるべく干渉しないようにと思ってはいるが、あまりに手際が悪いので何度、

口を出そうと思ったことか。

 だが、必死の自制心でそれは思いとどまった。

 あまりの過干渉は子供たちのために良くない。

 ケガだけしなければそれでいい。

 そして、出来れば台所を壊さなければ。

 美紀子はただ、それだけを願っていた。



 「ばっちりだ」

 「本当?」

 真美と美奈は目の前に整然と並んだチョコレート群を眺めながら感慨に耽っ

ていた。

 まる一日かけたチョコレート溶解技法『テンパリング』の修得、度重なる失

敗、材料の不足、近所のおばさんの邪魔など、様々な試練を乗り越えてついに

ここまで到達した。

 「どれ。ちょっと味見を」

 真美がそのウチの一つをつまみ上げ、口まで持って来る。

 しかし、いきなり「うっ!」と咳き込んだ。

 「どうしたの! お姉ちゃん」

 美奈のその問いかけに、真美は口を押さえて答える。

 「……お前、このチョコに何をした」

 「何をした? って……。別にいじめてはいないけど」

 美奈は不思議そうに真美とチョコとを代わる代わる見る。

 「いいから食べて見ろ」

 美奈はそう促されて、チョコを一つ口に放り込んだ。

 「うっ!」

 「だろ」

 美奈は口を押さえてあわててゴミ箱まで行き、そしてそこでチョコを吐き出

した。

 そして叫んだ。

 「お酒くさーい!」

 「お前、チョコに酒を入れたな」

 「……入れたっていうか、ほんの香り付けにブランデーを少し」

 「これが『ほんの香り付け』か。だいたい、このレシピのどこに『ブランデ

ーを入れろ』って書いてあるんだ!」

 「でも、ケーキを作る時とか香り付けにアルコールを垂らすし。それにマニ

ュアル通りやっていちゃつまらないじゃない。たまにアドリブも入れなくちゃ」

 「余計なことをして失敗するタイプだな、お前」

 真美は嘆息する。

 「とりあえず、これは父さん行きだ。さあ、時間がない。さっさと作り直す

ぞ!」



 父親も災難だ。

 その一連の様子を眺めていた母、美紀子はそう嘆いた。


後編へ続く