恋人レッスン
第六話 ケンカの仕方 中編
作 山下泰昌
「直斗!」
昼休み、昼飯を食い終わって、食堂の片隅で放心状態だった俺にいきなり声をかけたのは数学の青木
だった。
青木も学食らしい。『本日の日替わり定食』を片手に近づいてくる。
「お前、今日保健委員の集まりかなんかじゃないのか? さっき佐伯先生が探していたぞ」
「え?」
食べたばかりで血液が消化器に集まっているのか、頭がすぐに回らない。
保健委員? 集まり?
たっぷり十秒考え込んだ後、俺は
「ああ!?」
と声を上げてイスから立ち上がった。
そういえば、一週間前の集まりの時、そんなことを訊いたような気がする。
そういえば、自分の生徒手帳の予定表にチェックマークを付けたような気がする。
「早く、行ってこい。視聴覚教室だ」
俺は返事もせずに食堂から外に出た。
でも走らなかった。俺にとっては保健委員の集まりなんてその程度のものだ。
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視聴覚教室の中からは何人かが雑談しているような騒がしい空気が廊下に流れ出していた。
なぜ学年も変わったのにしつこく保健委員をやっているのかと言うと、またしても俺が居眠りしてい
る間に決定してしまったからだ。
そしてそれは腐れ縁で三年になっても同じクラスになってしまったとある二人組のせいだということ
は言うまでもないだろう。
俺は教室の後ろの扉を静かに開け、忍び込む。
幸い担当の教師、佐伯はすでに姿を消しており、各班で意見を交わしている最中であった。
「あ、せんぱーい!」
その中の一人が俺の姿を目聡く見つけ、手を振った。
やめてくれ。せっかく目立たないように忍び込んだのに。
そいつ、壬生は元気良く手招きをする。
俺は胸の位置まで右手を上げ、渋い表情で近寄っていった。
「先輩、遅いですよー。結局、先輩に決まっちゃいましたよ」
「え?」
俺は壬生の隣に座りながら、問い返す。
「何が、決まったって?」
「だから、今度の文化祭の救護班ですって」
「ちょっと待て」
……。
文化祭の救護班?
そういえば、そんなことを決めるって言っていたような、いないような。
「いつも思うんだけど、何でこういうこと本人がいない時に決めちゃうのかな」
「本人がいないからじゃないですか。だいたい先輩は怠慢ですよー。こういう集まり時間通りに来た
ためし、ないじゃないですか」
「やる気がないからに決まってんだろ」
「じゃあ、やる気がある時は時間に正確なんですか?」
「当たり前だろ」
「デートとかも?」
一瞬、頭の中に立石が浮かぶ。
「……まあな」
「じゃあ、今度、確かめますので、デートして下さい」
「え?」
俺は思いっきり動揺した。前までだったらそこはさらりと流していたところだ。『壬生トーク』のは
ずだった。だが、この前、当の本人から「好きです」と訊いてしまってからはそういう訳にもいかなか
った。いろいろな返す言葉が頭の中に浮かんでは消えていく。
壬生はしばらく真剣な目つきで俺の顔をじっと見つめていたかと思うと、急にぱっと破顔する。
「やだなあ。冗談ですよ、冗談。そんな真剣な顔しないで下さいって」
いや、絶対、冗談じゃなかった。今の表情は。
俺は額にイヤな汗をかいていることに気づき、手の甲で拭う。
「で、話を戻しますね。文化祭当日、私と先輩は正門付近に設けられた救護本部で待機することにな
ります。そこで……」
「ちょっと待て」
俺は壬生の話を遮る。
「俺と壬生?」
「そうです。私と先輩。決まっちゃったんですもん」
嬉しそうに話す壬生を見て、
はめられた。
と俺は思った。
今度からこういう集まりはきちんと出ることにしよう。後々に響いてくる。
こうやって人間は一つ一つ生きていくために大切な物を学習して行くんだな。
俺がそんなことを思いながら一人ため息を付いていると、壬生はさらに言葉を続けた。
「で、今日中に書類を生徒会に提出しなくちゃならないんです。もちろん、手伝って貰いますよ。先
輩!」
「今日中?」
「そうです。今日中です。放課後残ってもらいますからね」
「放課後かあ」
そう言った数瞬後、大事なことを思い出した。
「ああ! 立石」
「え? 何ですか?」
俺はあわてて口をつぐむ。
壬生の前で立石の名前を出すとややこしいことになりそうだ。
俺は「いや別に」とかなり不自然な表情で壬生にごまかした。
壬生は訝しげな表情でしばらく俺のことをじろじろ見てから、
「まさか、先輩。立石さんとデートだったんですか」
「いや、その」
「私一人に保健委員の仕事をやらせて、立石さんとデートしようとしていたんですね」
「……いや、違うって」
俺がかなり不自然にうろたえていると、壬生は急に態度を軟化させた。
「あはは。冗談ですよ、冗談。放課後、仕事頑張りましょうね」
「ああ」
俺はがっくり肩を落としながら、力無くそう言った。
疲れた。
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「ごめん。というわけで行けなくなった」
俺はすまなそうに頭を少しだけ下げる。
ここは放課後の隣の教室、立石のクラスだ。
立石のクラスメイトたちが三々五々に帰る中、俺は立石の席の横で直立不動で固まっていた。
立石にどんな反応されるのか戦々恐々だったからだ。
だが、立石は
「ああ。分かった」
とだけ言うと、何事もなかったかのように帰り支度を始める。
俺は何か拍子抜けして立石の席の横でぼうっと突っ立っていた。
すると立石は見上げるように
「どうした?」
と眼鏡の奥から問いかける。
「いや、いいのかなあ? と思って」
「良いも悪いも、委員会の仕事なんだろ。仕方がないじゃないか」
「そりゃそうなんだけどさ」
俺は頭を掻く。
帰り支度が終わった立石は颯爽と立ち上がった。
「そんなにすまないと思ってくれるのなら、いつか借りを返して貰うから気にするな」
「……何かそっちの方が気になるな」
「そうだな、何をして貰おうか」
立石は思いもよらぬ、いたずらっ子のような表情をして、微笑んだ。
思わず、俺は息を飲む。
こんな表情も出来るんだ、と。
全く立石と付き合っていると飽きることがない。次から次へと新しい立石を俺の前に見せてくる。
普段、隠れているところが多すぎるのかも知れないが。
そんな俺の驚きも余所に立石は「じゃあな」とだけ言って去っていった。
「あ」
俺は少し心の中に隙間が出来た気がした。
ほんの少しだけだけど。
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文化祭救護班の書類作りは意外なことに難航した。
いや別に意外でも何でもない。
俺が今まで仕事をサボりまくっていたせいだ。
正門前の救護班と各中継地点、保健室との連絡方法。
巡回の時間帯、用意すべき機材など。
実際に校内を駆けずり回らなくてはならないことがほとんどだった。
俺は今日のこの仕事はサボらなくて良かったなと思った。
この仕事を壬生一人に任せるのは酷だ。
ま、そんな訳もあって俺たちはその日、最終下校時間の七時ぎりぎりまで走り回って、書類を生徒会
に提出した。
俺たちは一握りの安堵感と共に下校した。
すでに星が見え始めている空を仰ぎながら、門を抜けるととたんに身体から力が抜けてくる。
「何とか終わりましたね、先輩」
壬生が俺の顔を覗き込みながら言う。
「ああ」
俺は大した感慨もなしにそう答えた。
「ステージがある体育館が一番大変でしたね。生徒会の担当と調整しながら話を進めなくちゃならな
かったから」
「ああ、特にメインイベントが絡むからな。……なんかTV局が来るんだろ。高校の学園祭ごときに
大げさだよな」
「あ、でもそんな大がかりな収録じゃないらしいですよ。カメラ一台、スタッフ数名で来るだけらし
いですから」
「何やんだろうな」
「さあ?」
肝心な部分は生徒会も話してはくれなかった。
それは文化祭直前までシークレットなのだそうだ。
まあ、興味ないけどね。
壬生は星空に向かって大きく背伸びをしながら口を開いた。
「ねえ、先輩。おなかすきません?」
この時間帯のごくごく平均的な男子高校生にそんなことを質問するのは、まさしく愚問というやつ
だ。
エネルギー効率が悪いのか、身体の中に別の生命体でもいるのか分からないが、俺たちは年中空腹状
態である。
「ラーメンでも食うか?」
「あ、私面白いところ見つけたんです。そこ行きません?」
「どんなとこ?」
「お好み焼き屋なんですけど、メニューがたくさんあるんですよー。ストロベリーお好み焼きなんて
のもあるし」
「なんだそりゃ」
俺の食指が動いた。
そういう変なところは大好きなのだ。
そんな俺の表情を微妙に読みとった壬生はにやりとほくそ笑む。
「あ、行きます? 行きますね? OK! それじゃレッツゴーです!」
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食った。
食いまくった。
豚、イカ、ヤサイ、そして噂のストロベリーに、更にアボガドお好み焼きなんてのも食った。チョコ
レートお好み焼きなんておぞましいものもあったが、それは壬生に譲った。
お好み焼きやもんじゃ焼きのような粉物は食った気がしないので、いくらでも腹に入る。
だが、後でずしっと来るのだ。
食い終わって立ち上がり、店を出た辺りでそれは、来た。
「く、食い過ぎた」
俺は少し前屈みになりながら道を行く。
でもそれは幸せな苦痛だ。満たされることによる苦痛。それはとても幸せなことだと思う。
実際、表情にゆとりがあるのがその証拠だ。
「大丈夫ですか?」
壬生が俺の背中をさする。
「大丈夫だって」
俺はやんわりと壬生の行為を断った。
本当にさすられることのほどではない。
単に物理的に腹の中が重いだけである。
だが、現役高校生の消化能力をなめてはいけない。
俺たちはゆっくりと北習志野駅への道のりを歩き出していた。
辺りはすっかり暗くなっており、街灯やネオンが煌々と点き始めている。
そんな時、壬生が「ふふ」と笑った。
「どうした?」
「いや、なんでもないです」
そう言いつつ、壬生は笑いを噛みしめるように自分の中で解決していた。
「なんでもない」と言われると気になるのが人間であり、俺である。
「なんだよ。気になるじゃねえか。言えよ」
俺は壬生の肩を軽く小突いた。
「本当、大したことじゃないんですって!」
壬生は身体をのバランスを大きく崩しながら少しはしゃぎ気味に言った。
しかし、態勢を整えて再びゆっくりと歩き始めると、下を向きながらゆっくりと呟く。
「……いえ、先輩とデートしているみたいで、楽しいなあって、思っただけです」
「え?」
俺は思わず壬生を見返す。
壬生は上目使いで俺のことを見る。
俺と壬生の足が止まった。
と、その時だ。
「あ」
壬生が驚いたような声を上げた。
その視線は俺を通り越して、俺のはるか後方に注がれている。
俺はその視線を辿るべく首を百八十度曲げ、振り向く。
そこの路上には人がいた。
女性だった。
女性は学生服を着ていた。
そして手には買い物をしてきたのか、デパートの紙袋を持っていた。
そして無骨な眼鏡と、野暮ったいおさげ髪。
「た、立石」
俺は思わずそう漏らしていた。
立石は路上に立ちつくしていたが、しばらくして俺たちの方から顔を背けると、何事もなかったよう
に立ち去ろうとする。
「お、おい」
しかし立石は俺の呼びかけが聞こえなかったのか、そのまま駅の方へと立ち去った。
「立石……」
俺の声が聞こえなかったのだろうか。
それともそもそも俺だということに気づいていなかったのだろうか。
暗かったし、立石は目が悪いし。
「飯尾先輩」
俺は後ろから声を掛けられてあわてて振り向く。
そうだ。壬生の存在をすっかり忘れていた。
「立石さん、ですか? 今の人」
そうか。立石じゃなかった、という仮定も成り立つな。
そう。良くいるじゃないか。
眼鏡を掛けていて、おさげで、無表情で、長身でウチの制服を着ている女の子なんて。
……。
やっぱ、立石じゃん! 立石以外いねえよ、そんなの。
俺はあわてて駆け出した。
そして立石がその姿を消した曲がり角を曲がる。
そして……
……そこにはすでに誰もいなかった。
後編へ続く