恋人レッスン 

第七話 キスの仕方

作 山下泰昌


 俺の右腕に立石の身体の重みと体温を感じた。

 とたん右腕から全身に向けて石化が始まったように緊張が伝播する。

 ぎこちなく顔を傾けて、俺の身体に寄りかかっている立石を見る。

 俺の右腕に顔を埋めているので、さらさらの髪の毛しか見えない。

 が、おもむろに立石は顔を上げた。

 そしてバタークリームのような瞳で俺を見上げる。

 ちょっと待て。これは本当、立石か?

 さすがに立石はこんな表情は出来ないだろ?

 俺が身体を硬直させてそんなことを考えていると、立石はゆっくりと瞳を閉じた。

 おい、おい。これはどういう展開だ?

 俺の身体は石化を通り越してダイヤモンド並に硬化した。

 ここからの判断は男にゆだねられる。

 これはつまり、そのキスをしていいというサインなのか。それともただ単に目を閉じただけなのか。

 いや、そもそもキスって何だ? 

 口なんてただの栄養素取得&呼吸&情報伝達器官じゃあないか。それをお互いにくっつけて何が楽しい。

 いや、楽しそうでは、あるんだけど……。

 ああ! 俺は馬鹿か!

 俺が頭の中で、うだうだ考えている間も立石は目を閉じ続けている。

 あまり待たせてはまずい。目を閉じているとどうなっているか分からなくて不安だろう。

 いち早く決断を下さなくては。

 ……ところで、こういうのって時間制限ってあるのだろうか?

 十秒くらいまでなら許容範囲だろうか。それとも三十秒くらいまで?

 一分越えたらさすがに怒り出すだろうか……

 うわあ! やっぱり俺は馬鹿だあ!

 こうしている間も時間が過ぎているじゃないかあ!

 もうなるようになれ!

 俺は覚悟を決めた。

 俺は顔を近づけていった。

 顔を近づけるにつれ、立石の温度、匂いが強くなって来るのを感じる。

 息使いを感じる。

 そして柔らかそうな立石の唇に

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 天井が見えた。

 耳元で煩わしいほどに目覚まし時計が電子音を立てている。

 窓からは朝日が射し込み、室温はぐんぐん上がっている。

 俺は額に手をやった。じっとりと汗をかいている。

 未だ現状が把握出来ない俺は、布団から―――そう俺は布団の中にいたらしい―――上半身を起こし

て自問自答を始める。

 ここはどこだ?

 俺の部屋だ。

 今はいつだ?

 今は夏休み。そして朝だ。

 俺は一人か?

 ああ、確かに一人だ。

 ここに来てようやく全てを理解した。

 つまり、だ。

 あれは夢だったんだ。

 そしてずどんと自己嫌悪に落ち込む。

 自分の愚かさ加減に、うわああああと大声で叫びだしたかった。

 なんだ? 俺は何か? 立石とキスをしたいのか?

 激しく頭を振る。

 夢はしばしば自分の深層心理を暴くというがあれは嘘だと思う。

 俺がこんな恥ずかしいことを考えている訳がないからである。

 俺はしつこく鳴り響いている目覚まし時計のボタンを叩くようにして止めると、デジタル表示のその

数字を読む。

 九時一分。

 なぜ、夏休みだというのに俺はこんな時間にアラームをセットしたんだろう。

 今日は塾の講習もないし、登校日でもない。

 アイドリング状態を経て俺の脳味噌はようやく活動を始める。

 そうだ。今日は立石とプールに行く約束をしていたんだ。

 いや、正確に言うと『立石たち』とだ。

 俺は布団から立ち上がった。

 立ち上がるとまだ右足の節々が痛いのに気付く。

 ギブスはもう一月前には取れた。

 だが、やはり骨を折るというのは、骨だけを損傷するだけでなく、周りの腱やら筋肉にも影響を与え

るらしい。

 おまけにギブスで保護されていたせいで、俺の右足は枯れ木のように細くなっていた。

 あれを現実に見たときは少なからずショックがあった。筋力が衰えていたのだ。

 というわけで、未だ完全回復には至っていない俺は、そのリハビリと前からの約束も兼ねて立石とプ

ールに行くことになったのだ。

 俺は時計を再び見る。

 九時五分。

 待ち合わせ時間の十時までにはまだ余裕がある。

 俺は枕元に脱ぎ散らかしていたGパンをひっつかむと、のろのろと起きあがった。 

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 俺が改札口に九時五十分頃到着すると、案の定、立石と美奈もその時間に現れた。

 立石はTシャツとGパン。

 相変わらず色気も素っ気もない格好。というかほとんど俺と同じじゃないか。

 いつも思うことだが、スカートがある分だけまだ学校の制服の方が可愛らしいという気がする。

 俺がそのようなことを言うと「じゃあ、飯尾はなんでその格好なんだ」と言い返された。

 対する美奈は薄手のキャミソールに真っ赤なミニスカート。そして素足に可愛らしいサンダルを履い

ている。

 実に女の子らしく、美奈らしい格好だ。

 「本日はおまねきに預かりまして」

 冗談っぽく大げさに頭を下げる美奈。

 「いえいえ」と言って滑稽なほどに律儀に頭を下げる俺。

 その様子を腕を組んで遠目に見ていた立石は急に興味を無くしたように「行こう」と俺達を促す。

 立石とその妹と俺。

 珍しい組み合わせだ。このメンバーでどこかに行く、というのは初めてだった。

 だけど、もともと今回のプールには美奈は誘っていなかった。

 ではなぜ美奈が居るかというと、昨晩の立石からの電話に起因する。

 「美奈も連れていってもいいか?」

 立石は唐突に切り出した。

 「美奈ちゃんを?」

 「ああ、ちらとプールに行くということを話したら『行きたい!』と主張するんでさ。それで飯尾に

了承を得ておこうと」

 どうしてそういうことを妹に話すのかなあと俺は受話器のこちら側で眉をしかめる。

 せっかくのデートに割り込まれるのは明白じゃないか。

 ん? 何が『せっかく』なんだ?

 いや、考えたらデートに割り込まれたって困ることはないよな。

 そういえば、そうだ。

 俺は一人でそう納得する。

 「別に構わないよ」

 「そう、良かった」

 受話器の向こうで素っ気ない立石の返事が聞こえる。こういうとき互いの顔が見えない電話は不便だ 。

さすがに声の抑揚だけで立石の感情を読みとるほど俺は立石のことを知らない。

 「いや、なぜか美奈の奴、強硬に行きたがるんでさ」

 「泳ぎたいんだろ」

 「……」

 受話器の向こうが沈黙に閉ざされた。

 俺は少し不安になって「どうしたんだよ」と問いただす。

 「……いや、あまりに当たり前な返答が帰ってきたんで、少し驚いていたところだ」

 「プールに行きたい人間の心理を『泳ぎたいんじゃないか?』と推理して何がおかしい」

 「うん。普通、美奈はこの手の話に立ち入って来ないんでさ。ちょっと疑問に思っただけだ」

 「でも活動的な美奈ちゃんが『プールに行きたい!』ってのはイメージ通りって気がするけどな」

 「うーん。そうかあ?」

 受話器の向こうで首を捻っている立石が容易に想像できる。

 「まあ、いいさ。みんなで楽しく泳ごうぜ。俺は問題ないからさ」

 そう言ってその話はそこで終了となった。

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 プールは海浜公園というところにあって、思いっきり海側なのだ。歩くにはかなり遠いのでバスを使

うことになる。

 船橋駅の南口にある停車場からバスに乗り三十分も揺られているともうそこは海浜公園だ。

 余談だが、この海浜公園は四月から五月は潮干狩りも行われている。潮干狩りシーズンは海浜公園ま

での道路は死ぬほど渋滞するので、早起きして開場時間の一時間前くらいには着いているくらいの心構

えでないと、潮干狩りすら出来ないで帰ることになるので気を付けた方が良い。……いや、本当に余談

だった。本題に戻ろう。

 海浜公園は大まかに分けて室内プール、屋外プール、海岸の三ブロックで構成されている。それらに

海の家だの食堂だのが付設されて全体を形作っている。

 夏なのに室内も無いだろうし、こんな東京湾の最奥部では海で泳ぐことも叶わない。

 と言うわけで俺達は屋外プールで泳ぐことにしたのだ。

 実に順当だ。

 俺は更衣室から出てしばらく行ったところの樹の陰にビニールシートを敷き、休憩するための場所を

確保した。

 男は着替えが楽だ。

 ぱっと脱いでぱっと着れば済む。

 対する女性陣はやっぱり多少時間がかかるらしい。

 立石なんかは男っぽいから早いだろうと思っていたが、たっぷり十分は待たされた。やっぱり美奈が

いるからだろうか。

 俺は暇つぶしに自販機でジュースを買ってきて飲む。

 何を着てくるんだろう。

 ぼけっと入道雲が巻い立つ青空を眺めながら、俺の思考はその一点に集約されていた。

 いや、プールに来たのだから水着には決まっているのだが、正直言ってその立石の水着姿というのが

想像出来ない。頭の中の立石像が白いもやのようなもので包まれている。

 対する美奈の方は容易に想像出来る。

 恐らく暖色系のワンピースだろう。

 だが、立石は?

 一番想像出来るのはスクール水着だった。だが、ウチの学校にはプールが無く、水泳の授業などもな

いのですなわちスクール水着なども存在しない。

 第一、立石はこの前、水着を買いに行ったのだ。わざわざスクール水着を買いに行く奇特な女子もい

ないだろう。

 ……。

 いや、立石は十分奇特だからなあ。あり得なくもないか。

 こうなると立石達が来るのが待ち遠しくなる。頻繁に女子更衣室出口の方に目を走らせて今か今かと

待ちかまえていた。

 やがてそこから真っ赤な水着を着た子が勢い良く呼び出して来た。そして小走りに俺達の方に駆け寄

ってくる。

 「じゃーん。お待たせしましたー」

 そう言ってその子、お察しの通りの美奈はとびっきりの笑顔で元気良く右手を上げてポーズを取った 。

 案の定の真っ赤なワンピース。

 うんうん。可愛い、可愛い。

 俺は目を細めて何度も頷いた。

 多分、将来自分で娘を持つとこんな気持ちなんだろうな。

 何か守ってやりたくなるような、手の中に入れて愛でたくなるような、そんな可愛さ。

美奈から感じる可愛さはそんなマイルドなものだ。

 で、立石はどうしたんだ。立石は。

 俺が女子更衣室の方に視線を走らせているとそれを敏感に察した美奈が眉をしかめる。

 「うーん。何やってんのかなあ、お姉ちゃん」

 再び小走りで更衣室へ戻っていく美奈。

 美奈が更衣室の入り口でなにやらやっているのが遠目で見える。

 更衣室の中の暗がりに向かって何かを叫んでるようだ。

 そして腰をためて更衣室の中から何かを引っぱり出そうとしている。

 しばらく抵抗していたその何かはやがて諦めたように美奈に引っぱり出された。

 何かではない。それが立石ではなくて誰だって言うんだ。

 美奈と立石は連れ立ってこちらにやって来る。

 陽気に可愛らしい笑みを口元に湛えた美奈と、憂鬱そうな皺を眉の間に作る立石。

 何て対照的な姉妹なんだ。

 俺は今更ながらに呆れた。

 しかし次第に近づいてくるそれを見て、そんな悠長な感慨に耽っている場合ではないということに

数瞬後、俺は気付くことになる。

 「待たせた」

 立石は恥ずかしそうに俺から視線を逸らし、そう言った。

 そして俺は脳天から尻まで金棒を突き刺されたような衝撃を受けることになる。

 「た、立石?」

 「すまん。意外に着替えに手間取った」

 立石はそう言って両腕で身体を隠すかのように胴を抱え、恥ずかしそうに立っていた。

 思わず

 「誰だお前」

 と口走りそうになった。

 別人だった。

 いや、言い方が間違っている。別人のようだった。

 そこにいるのは立石であって立石でない。別の女性のようだった。

 そして、いつもの立石を構成する重要アイテムが無いことに気が付く。

 そう、あの野暮ったい眼鏡を掛けていなかったのだ。

 プールに入るから外してきたのだろう。

 立石は今まで俺が見たことのない素顔を露わにしていた。

 普段、眼鏡の下に隠れていた立石の目は意外に大きく、ぱっちりしている。

 その深く透き通った瞳を見ているだけで吸い込まれそうになる。

 おまけにいつものダサいお下げ髪はばさっりと下ろして肩胛骨くらいまでの長さになっていた。シャ

ワーでも浴びてきたのかその髪は少し濡れている。

 それがいい感じに髪の毛をまとめていた。

 俺の視線は自然と下へと移って行く。

 空手で鍛えられている身体は締まっていた。大型回遊魚を思わせるそのなめらかな肢体はバランスが

良かった。

 胸は大きくもないが小さくもない。普段だぶだぶの制服で隠れているのでその存在にあまり気付かな

かったが、それは立石が女性だったということを痛烈に意識させてくれた。

 胴は当然の事ながら余分な脂肪など付いておらず、腰は格闘家らしくこぶりながら安定していた。そ

して野生動物を思わせるしなやかな二本の脚。

 俺は立石の全身を見て、驚愕していた。そう、見惚れていたとか、見直したとかのレベルではない。

文字通り『驚』いて『愕』然としたのだ。

 「じろじろ見るなって」

 立石は恥ずかしがって身体を斜に構え、頬を赤く染める。

 こうなるとその言動すらも可愛らしく感じるから不思議なものだ。

 なるほどこれなら美奈と姉妹だと言っても誰もが納得する。

 「何か喋ろよ、飯尾。黙ってじろじろ見られると気持ち悪い」

 立石は更に居心地を悪くしたように身体をせわしなく動かす。

 確かに立石だ。言葉と態度は立石だ。身長の高さも身体のパーツも立石だ。身体から放たれているオ

ーラも立石だ。

 「やっぱりこの水着、変か?」

 「え?」

 立石は俺が一言も喋らず、立ち尽くしている理由が、自分の水着にあると思ったらしい。

 俺はというとその段階になってようやく立石の着ている水着を観察する余裕が出来たことを知った。

水着は紺色のセパレートタイプの水着。競泳水着としても使えそうなヤツだ。わずかに予想が外れたが

実に立石らしいチョイスだ。似合っている。

 「いや、良いんじゃないか?」

 俺は一応、そうフォローして入り口の近くに確保した陣地に立石と美奈を促す。そこには持ってきて

於いたビニールシートと簡単な荷物が置いてある。

 俺は少し所在なさ気にそのシートの端にあぐらをかく。

 続いて美奈と立石も腰を下ろした。

 腰を下ろして一息付くと美奈が何か意味あり気にこちらを覗き込んでいる。

 「なんだよ」

 「へへーん」

 いたづらっ子のように何かを企むような目で俺の耳元で囁く。

 「お姉ちゃんに見惚れちゃったんでしょ?」

 「ば、莫迦!」

 俺は必要以上に美奈を肩を突き飛ばした。

 今の会話が立石に訊かれなかったかと思い、俺は素早く立石の表情を伺う。

 立石は俺の一瞬の視線を感じたのか、即座に視線を逸らした。

 げ、訊かれているよ。

 俺は立石を直視出来ず、視線を逸らしまくる。

 今日は非常に窮屈な展開だ。

 立石とデートしてこれほど肩が凝ったのは初めてのような気がする。

 しばらくの間を沈黙が支配する。

 俺は必死になってこの沈黙を破るための言葉を探した。

 「泳ぐか?」

 立石は俺の方を振り向いて目を丸くした。

 「泳ぎに来たんだろ」

 そうだよな、そういえばそうだ、と不審な言動を繰り返し、俺は立ち上がってプールサイドに向かう

。立石は胡乱な視線を俺に浴びせかけながら着いてきた。

 美奈もとことこと子犬のように着いてくる。

 俺がいきなりプールに入ろうとすると立石は待ったをかけた。

 「準備運動をしないと」

 「準備運動?」

 俺が「そんな子供っぽいこと」と批判しようとしたら、真っ直ぐな目ですかさず言葉を継いで来た。

 「少なくとも脚部の運動だけでもしないと。ただでさえ、飯尾の脚は弱まっているんだから」

 そう言われて俺は何も言えなくなった。そうだな。確かに今の俺は完全なる健康体ではないんだし、

普段以上に身体に気を使うべきかも知れない。

 俺は頷いて、立石が行う運動と同じように身体を動かした。

 立石の運動はどうやら空手の練習で行っている準備運動らしく、慣れた感じでよどみなく身体を動か

していた。

 対する俺はかなりぎこちない。おまけにやっぱり脚の方が自由に動かない。確かにこの状態で無理な

運動をしたら脚をつっていたかも知れない。

 俺が脚の筋が痛くて顔を顰めていると、立石は「大丈夫か」と心配そうな表情で俺の方を見る。

 見慣れない大きな瞳が俺の方をしっかりと見ている。

 俺はあわてて目を逸らした。そして「大丈夫」と呟くように言った。

 どうも今日はやりにくい。


中編へ続く