恋人レッスン 

第七話 キスの仕方 中編

作 山下泰昌


 海浜公園の屋外プールは曲がりくねった大きな輪のような形をしている。そして水流が何カ所から吹

き出しており、いわゆる流れるプールというものを形成している。

 俺達はそこの途中から入った。

 他の客たちと同じようにほぼ同じスピードで同じ方向に流されていく俺達。

 水の中は―――水流と浮力のせいだろうけど―――陸上より歩きやすかった。しばらく歩くことに苦

痛を感じていた俺はその感覚がたまらなく幸せに感じた。

立石は何度か心配そうな視線を俺の方に向けながらも、気持ち良さそうに水に浸かっていた。身体の

半身が隠れていることで先程までの気恥ずかしさも無くなっているらしい。

 いつものごくごく自然な表情になっている。

 立石は時々水流に乗って泳ぐ。

 実に気持ちよさそうにクロールや平泳ぎを俺の眼前で披露する。

 先程俺が大型回遊魚と言った形容はさほど間違いがなかったかも知れない。

 やっぱり立石は身体が動かしている時が一番似合っている。

 まるで水で呼吸するかのように生き生きと泳いでいる。

 そしてしばらく泳いで俺の視界から消えかかると流れに逆らって俺の方に戻ってくる。

 俺のことを気にして泳ぎに集中出来ないのだろうか。

 「俺はこの調子で漂っているからさ、立石しばらく泳いで来ていいよ」

 俺がそう言うと立石は首を横に振る。

 「一人で泳いでも楽しい訳ないだろう」

 そうしてその大きな目で俺に向かって恥ずかしそうに笑いかけた。

 俺はその笑顔を直視して赤面する。

 立石ごときに微笑み掛けられて赤面するなんて。

 ああ! やりにくい!

 今日は本当にやりにくい!

 俺はその状況に耐えきれなくなって、ざぶんと水中に潜る。

 早い話が照れ隠しだ。恥ずかしい。

 「あ、飯尾」

 という声が潜る直前聞こえた。

 が、俺は構わず潜水する。

 水の中で立石の位置を捕捉した。

 俺はそのまま潜行し、立石の足を掴んだ。そして引く。

 「うわっ!」

 がぼがぼという音が水を通して聞こえてきて立石がもがいているのが分かる。

 俺はすかさず手を離して立石から距離を取った。

 しばらくしてけほけほ言いながら浮上してきた立石が目に入った。

 「やったな」

 顔に付いた水を手で拭いながら立石は挑戦的な―――でも割と楽しそうな―――目を俺に向けてくる 。

 一瞬「やりすぎたかな」という恐れが俺の頭を過ぎった。そして立石の反撃を戦々恐々と身構えてい

た時、ふと美奈が消えているのに気が付いた。

 「あれ? 美奈ちゃんは?」

 「え?」

 言われて戦闘態勢に入っていた立石も辺りを見回す。だが、周辺半径二メートル内には美奈らしい姿

は見えない。

 「どうしたんだろ?」

 立石がそう心配し出した時、俺と立石の中間地点に突然、豪快に水柱が立った。

 水柱はその至近距離に居た俺と立石を確実に直撃する。

 俺は突然のそれを回避出来ずにまともに水を飲み込む。気管に水が入りかけ、激しく咳き込んだ。

 「じゃーん」

 美奈が全身ずぶ濡れ状態で、俺と立石の丁度中間のスペースでポーズを取る。

 「夏のプールと言ったらやっぱりこれでしょう、これ! ゴムボートよ!」

 そう、美奈はどこからか借りてきたゴムボートもろともプールサイドからプールめがけ飛び込んだの

だ。

 しきりに顔にかかった水飛沫を拭いていた立石は美奈のそのアイデアに難色を示す。

 「でもこれじゃ、飯尾のリハビリの役に立たないじゃないか」

 「もう、飯尾さんのリハビリなんてプールに来る口実でしょうに。お姉ちゃんは固いなあ」

 美奈は頬を膨らませてボートに乗り込んだ。そして高見から俺達を見下ろす。

 「じゃあ、飯尾さんとお姉ちゃんは泳いでいて下さい。私だけボートでらくちんに行きます」

 そう言って意地悪そうに「いー」と歯をむき出した。だが、美奈がやると何か憎めない。

 立石が俺の方を向いて意味ありげなゼスチャーをした。

 『ゴムボートをひっくり返そう』

 そのゼスチャーはそう言っていた。

 俺は内心、立石もこういうイタズラをするんだ、と驚きながらも即座に同意する。そもそもこの手の

お約束的イタズラは嫌いな方ではない。

 そして立石の小さなかけ声と同時に俺達はゴムボートの縁を思いっきり突き上げた。

 「きゃああ!」

 ボートの上で安穏としていた美奈は受け身など取れるはずもなく無様に水の中に落下する。

 やがて逆さになったボートの脇からご自慢のポニーテールもずぶ濡れ状態の美奈が恨みがましい表情

で顔を出した。

 「ひどーい。お姉ちゃんはともかく飯尾さんまで……」

 俺は嫌な予感がした。そして立石の方を振り向く。

 だが、その時には立石はいそいそと逃げ出していた。

 「お、おい。ちょっと待て」

 頭の中に危険信号が点灯した。

 立石が逃げ出すと言うことはそれほどのことであるわけで。

 ……。

 俺もあわてて逃げだそうとするが病み上がりのため身体の反応とスピードが圧倒的に遅かった。まし

てや水の中である。

 「この『プールサイドのディアブロ』と呼ばれた美奈さんを敵に回そうとは良い度胸じゃない。覚悟

なさい!」

 ゴムボートの一端をむんずと掴んだ美奈が渾身の力を込めて振り回した。

 「まあ、待て! 落ち着け」

 予想だにしなかったその大胆な攻撃を回避出来るわけもなく、水面を綺麗に滑って来たゴムボートを

顔面にまともに受けた。

 「がはあっ」

 俺は呆気なく撃沈する。

 「次っ!」

 殺気走った美奈は普段からは考えられないような機敏な動きで立石を追撃し始める。

 俺は水面に仰向けに倒れてしこたま水を飲んだ。

****************************************

 美奈の復讐劇も立石を轟沈させた所で一応終了し、だいぶ身体も冷え切った俺達は水から上がった。

 丁度昼時でもあるし、昼飯を食いながら甲良干しでもしようということになった。

 プールサイドの小屋で売られているジャンクフードをいくつか買って俺達はぱくついた。

 俺はラーメン。

 立石はカレーライスで美奈はホットドックを選んだ。

 昨日見たテレビ番組の話などをしながら和気藹々とした状況が続く。

 立石はしばらく視線をプールのかなたに向けていたが、やがて何かを思いだしたように口を開いた。

 どうやら話題を探していたらしい。

 「そういえば、昨日尾花に会ったぞ」

 「尾花? どこで?」

 尾花は立石のクラスメイトで数少ない友人だ。文化祭実行委員絡みで俺とも面識がある。割と珍しい

共通の友人というわけだ。

 「学校で」

 「ふーん。学校ね」

 だが、そこではたと思い直す。

 ちょっと待て。俺は昨日、学校に行った覚えはないぞ。

 当然だ。今は夏休み。部活に入っている人間でもない限り学校など行かない。

 「ちょっと待てよ。どうして学校に行ったんだ? 休みだろ」

 「尾花に呼び出された」

 「なぜ?」

 立石は下を向いて口ごもった。そして視線を逸らし気味にこう答える。

 「文化祭の仕事を頼まれた」

 「へえ。立石に? どんな仕事なの?」

 「いや、それは、まだ言えない」

 「なんだよ、それ」

 立石は何とか無難に切り抜けようと必死だ。 

 「ステージ企画に関わることだからぎりぎりまで秘密らしいんだ」

 だったら、話し出すな、と言いたいのをぐっと堪えた。

 「でもそう秘密にされると余計、気になるよな」

 「駄目だ」

 立石は首を横に振る。

 「ちょっとだけ」

 「駄目だ」

 立石は右手を横に振る。

 「じゃあ、ヒントをくれ」

 「え? ヒント?」

 立石は驚いたように目を丸く見開いた。そして下を向いてなにやら考え出す。

 どうやら「駄目だ」と言っておきながら、真剣にヒントを考えているらしい。 

 「うん、そうだな。私が関係している」

 「それが、ヒント?」

 「ああ」

 「当たり前じゃん。立石が仕事を手伝うんだから立石が関係しているのは当然だろ」

 「うーん。手伝うといっても私はほとんど何もしない。文化祭当日にほんの少し関わるだけだ」

 「結局なんだか分からねえよ」

 「じゃあ、もういい」

 そう言って立石は拗ねたように遠くを見る。

 何だよ。話したいのか、話したくないのかどっちなんだよ。

 俺が口を尖らせてそう言いがかろうとした時、あることに気が付く。

 「あれ? 美奈ちゃんは?」

 「え?」

 二人して気が付いてきょろきょろやっていると、ぱこん、と俺の頭に何か柔らかい物が当たって跳ね

た。

 俺は頭に手をやり、そして辺りを見回す。

 そこには転々と転がるイチゴ柄の球体が一つ。

 いわゆるビーチボールだ。

 どこから現れたのか美奈がそのビーチボールを両手で取り上げると元気良く飛び跳ねた。ポニーテー

ルが可愛いらしく揺れる。

 「夏のプールと言ったらやっぱりこれでしょう、これ! ビーチボール!」

 美奈はそう言って俺と立石を立ち上がるように促す。

 「ええー」

 と不平の声を漏らす俺と立石。

 「もう少し休んでいようよ」

 俺が言った。

 「飯尾も病み上がりだから疲れているんだ。もう少しゆっくりしよう」

 立石もそう俺を言葉で助ける。

 すると美奈は「そんなあ」と頬を膨らませた。

 「お姉ちゃん、さっきと言っていることが違うじゃない。飯尾さんのリハビリのためにならないじゃ

ない」

 「いや、陸上と水中じゃあ大違いだろ」

 「大丈夫よう。ちょこちょこって歩いて、ぽんとするだけじゃない。さっさ立って! 立って!」

 何が「ちょこちょこって歩いて、ぽん」なんだろう。全く理由になっていない気がするのは俺だけか ?

 すると立石が急に立ち上がる。

 「すまん。ちょっと席外す」

 「えー。お姉ちゃん逃げる気ぃ」

 「いや、トイレだ」

 そう言って更衣室の方へすたすたと去っていく立石。こういうところでさらりと「トイレだ」と言う

ところが実に立石らしい。

 「もう」

 ふくれっ面して美奈は渋々俺の隣に座り込んだ。

 ビーチボールがころころと俺の目の前で転がる。

 俺は何気なくそれを拾い上げた。

 美奈が俺の方をちらちらと視線を配るので何となく気になる。

 美奈らしくない。何かに躊躇しているようだ。

 だがやがて何か決心したように気合いを入れると、美奈は俺に語りかけた。

 「ねえ、飯尾さん?」

 「え?」

 いきなり耳元で囁かれたので一瞬どきっとする。

 「本山さんってどういう人?」

 「は?」

 混迷を深める。俺はビーチボールに乗せていた顔を上げて、まじまじと美奈の顔を見返した。美奈は

いつになく真剣な顔で俺の顔を食い入るように見ている。

 俺の頭の中で繋がるモノがあった。

 俺が入院した時、美奈と本山は出会っている。その時、本山と美奈に繋がりが出来たのかも知れない 。

 俺は頭を巡らした。本山は悪友ではあるが、一応俺の親友だし、あまり悪く言う訳にもいかない。か

といってあまり嘘八百並べるのも美奈の為にならないし。

 「本山さんって付き合っている人いるのかなあ」

 俺が頭の中で返答に窮していると美奈はため息を付きながら膝の上に顎を乗せてそう言った。

 「いない、よ」

 「本当?」

 美奈は小首を傾げた。

 確かいないはずだ。現時点では。だが、一ヶ月前には、とある女性とつきあっていたし、その更に数

ヶ月前はまた別の女性と付き合っていた。

 ……悪い奴じゃないんだけど、恋多き男なんだよな、本山って。

 「何? 美奈ちゃん、本山のこと気になったの?」

 すると美奈は恥ずかしそうに、それでいて少し物憂げに俯く。

 そして飛んでもないことを宣った。

 「キスされちゃった、から」

 ……。

 一瞬、美奈が何て言ったのか頭が理解出来なかった。

 いくつかの単語が頭の中で分解されて結びつかない。

 本山。美奈。気になる人。付き合っている人。キス。

 キス!?

 「なにぃーっ!」

 俺は辺りの人間が思わず振り返るほどの大声を上げた。 


後編へ続く