恋人レッスン 

第八話 レッスン終了

作 山下泰昌


 しまった。

 俺はあわてて身体を反転させてその姿を目で追った、

 だが、立石はすでに教室の外に出てしまった後だった。

 舌打ちをする。

 軽率だった。

 こんな誰でも入って来ることの出来る教室でそんな話をしてしまうなんて。

 俺はイスを倒したまま跳ねるように立ち上がり、立石の後を追う。

 廊下に出る。

 だが、その姿はすでに無い。

 駆け足で立石の教室に行く。

 そして教室中を見渡す。

 「ん? どうした? 飯尾」

 次の授業の支度をしていた尾花が不思議そうに訊く。

 「立石は?」

 「え? 真美? あんたと一緒に帰る話をしようって言って、さっき出て行ったところだけど」

 俺はこの日、何度したか分からない舌打ちをもう一度して、尾花に何も言わず駆け出した。

 「ちょ、ちょっとどうしたっていうの?」

 背中にそんな声が聞こえてきたがそれに答えている余裕は俺には無かった。

 廊下を突っ走り、昇降口を降り、上履きのままグランドに飛び出る。

 そのまま正門まで無呼吸で突っ走った。

 ――だが、どこにも立石の姿は見当たらなかった。

 俺は肩で息をしながら正門のところでしゃがみ込んだ。

 莫迦野郎。少しくらいは話を訊けよ。

 心の中で立石に悪態を吐く。

 だが、すぐにそれを訂正した。

 ……莫迦なのは、俺だ。

**************************************

 九月に入っていた。

 今までのんびりしていた同級生も――というか俺も――そろそろ目の色を変えて受験勉強に

身を入れ出す頃だ。だが、教室を見渡すと皆なぜか浮き足立っているような雰囲気がする。

 とても皆受験勉強に集中しているようには見えない。

 帰宅部は気もそぞろに家路を急ぐはずなのに、教室の片隅で頭を付き合わせて何やら密談

をしている。
 
 窓の外を覗いてみると校庭のそこかしこで体育系の部活の奴らが練習もしないで何やらとん

かんとんかん、と作っている。

 教室から廊下へ出ると文化系の部活の奴らが目を血ばらせて早足で行き交っている。

 放課後なのに居残る人間がいつもより多く、校内が騒がしい。

 だが、それでいて楽しそうだ。 

 そう。それもそのはずだ。

 三日後には文化祭が控えているからだろう。

 お祭り好きの俺もその周りの雰囲気につられて浮ついていたようだ。

 心なしか廊下を歩く足が軽く感じる。

 俺は一つ部屋を隔てた、とある教室へと赴く。

 そこは立石のクラスだ。

 俺は教室に入ると、素早くその姿を見つけて近寄って行った。

 「よ」

 立石は席に座りながら俺を見上げると、少しずれた眼鏡を直し、「ああ」とにこりともしないで頷く。

 「今、打ち合わせが終わったところだ。飯尾は?」

 「俺はあさって。細かい打ち合わせはとっくに終わっているからさ」

 というのは文化祭の保健委員の仕事のことだ。几帳面な壬生は怠惰な俺を無理矢理引きずり回

して先週までに細かい仕事を終わらせていた。あと、やることといったら前日の設営くらいなもんだ。

 立石は「ふん」と鼻をならすと手早く教科書やノートをカバンに仕舞い始める。

 立石の方の打ち合わせというのは尾花との文化祭の打ち合わせだ。例の文化祭でのステージ企

画で立石が何か関わるというアレだ。

 立石は文化祭まであと二日だというのに、その内容をまだ話してくれない。一体、立石がステージ

で何をやるというのか。裏方か、それとも表にでるのか? 絶対司会というタイプではないから、まず

裏方だろう。いや、空手の演武を見せる、という展開もあるな。

 だけど、そんな企画、面白いのか?

 いや、待てよ。ビンの口を叩き斬るとか、牛の角を叩き折るとかだったら面白いかも。

 「何、ボケっとしてんのよっ!」

 俺がそんな益体もないことを考えていたら、後ろからそう声を掛けられた。

 尾花だった。

 尾花はその特徴的な笑みを口元に浮かべたまま俺の顔をじろじろと覗き込む。

 「いよいよ、あさっては真美の晴れ舞台よ。楽しみでしょ」

 「え? あ、まあ……」

 と、俺は歯切れの悪い答えを返し、立石に目で問いかける。対して立石は困ったような、怒った

ような目で見つめ返す。

 そんな俺の反応に怪訝な顔を示した尾花は視線をしばらく俺と立石の顔の間を往復させた。

 「実は二学期が始まってから思っていたことだけど。……あんたたち、何かあった?」

 「え?」

 「え?」

 俺と立石は同時に声を出す。そして互いを見合う。「どうして?」という視線を絡ませる。

 「ほら、それ。目で語り合ってさ。雰囲気がビミューに違うんだよね。今までが滅茶苦茶ぎこちな

かったのに、最近すっごく自然だもん」

 「あ、いや、別に、何にもないよ」

 俺は必要以上に動揺して尾花の言葉を否定する。尾花は俺の目を真正面からじっと見ると、

突然真剣な顔で語りだした。

 「人にもしオーラみたいのがあるとするよ。例えば飯尾が赤で立石が青のオーラを持っていると

する。で、今までその二つの色は混ざり合っていなかったの。妙な前衛芸術の絵みたいにね。で

も今では二人の間ではそれが混ざり合って紫色になっている。そんな感じがするな」

 そしてにたあっと口元に嫌な感じの笑みを浮かべた。

 「……なーんてね。うんうん。分かった、分かった。多くは訊かない」

 おいおい。何、分かった振りしてんだよ。

 俺はそう突っ込もうとしたが、間髪入れずに放たれる尾花の言葉にそれは遮られる。

 「ところで真美さあ、ひょっとして文化祭のこと、飯尾にまだ話していないの?」

 立石はイスに座ったまま尾花を見上げた。そして不思議そうな顔で「ああ」と返事をする。

 尾花は天を仰ぐ。

 「あのさあ、確かに極秘事項だ、とは言ったわよ。でも自分の彼氏くらいには言いなさいよ」

 「そういうもんなのか?」

 立石の質問に尾花は思い切りよく頷いた。

 「そういうもんです!」

 「じゃあ、言う。飯尾、実はな」

 「わあー! わあー!」

 尾花はあわてて遮る。

 「誰がこんなところで言えって言ったあ!? 二人っきりの時に言え!」

 「そういうもんなのか?」

 立石は再び問う。尾花は大げさな身振りで身体全体で主張した。

 「そんなことは自分で考えろー!」

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 と言うわけで俺と立石は今、学校から駅に向かっての帰宅途中である。

 別に誰も聞いちゃいないからいつ話しても構わないと言っているのに、立石は律儀にも辺りに

人気がなくなりだしてから語りだした。

 「実はな、あさっての文化祭のステージの企画に出るんだ」

 「それは訊いた」

 俺はうんざりしたように言葉を返す。その話だったら夏休みから聞いている。俺が聞きたいのは

そこから先の話だ。

 「で、立石は何をやるの? 裏方? 司会? それとも空手の演武でもするのか?」

 「ああ」

 立石は真面目な顔で頷いた。

 「牛の角を叩き折るんだ」

 ……。

 「え? 本当」

 俺は目を丸くした。

 頭の中でいろいろなことが浮かんでは消える。牛はどうするんだろう。どこかの農家から調達

するんだろうか。でも調達したとしても借り受けただけの牛の角を折ってしまってはその農家も

納得しないだろう。ひょっとして借り受けるんじゃなくて文化祭実行委員が買うのだろうか。あ、

それでステージ企画で使った後、食べるのか? ちょっと待て。解体は誰がするんだ? 後夜祭

の校庭の真ん中で学生数人が肉切り包丁を持って牛を解体していくのってかなりスプラッタだぞ。

 俺が真剣にそんなことを考え出すと立石は心配したような顔で俺の顔を覗き込む。

 「どうした? 飯尾?」

 「え?」

 俺ははっとしたように顔を上げた。

 「……つまらなかった、か?」

 「は?」

 まじまじと立石を見返す。

 「何? 冗談?」

 「そうか、やっぱりつまらなかったか」

 立石はそう言って小さくため息を付く。

 いや、つまるつまらないの問題じゃなくて。

 俺はそんな立石を目を丸くして見つめていた。

 はっきり言ってかなり仰天させて貰った。立石が冗談。信じられない構図だ。

 「で、本当の所はどうなんだよ」

 冗談を外してわずかに落ち込み気味の立石は逆に問うような視線を俺に向けてくる。そして

一瞬、何か逡巡するように目を移ろわせた後、

 「別に。大したことじゃない」

 と言って、俯いた。

 「なんだ、そりゃ」

 俺は立石の腕を小突いた。

 立石は俺のその攻撃に苦笑いをして応える。

俺はそんな何気ないやりとりが、なぜかひどく楽しい。

 なんかほっとする。いつまでもこうしていたい。

 立石と俺との間の空気の感触がたまらなく心地よい。

 尾花じゃないけど、俺と立石の色が混ざっている。本当、そんな感じだ。

 ふと、改めて立石を見る。

 立石は何か言いたそうな顔で時々俺の方を盗み見ている。

 ……いつからだろう。このセンスの悪い制服の着こなしや無骨な眼鏡や野暮ったいおさげ髪が

それほど気にならなくなってきたのは。それとも俺が気付かない内に立石のお洒落レベルが上が

ったのだろうか。

 俺たちはいつのまにか学校と駅の丁度中間点にある公園を歩いていた。

 俺はそこの片隅にあるベンチに立石を促した。このままだと話を聞くことも出来ずに駅について

しまうことになる。立石は同意する意味でベンチに腰を下ろした。

 俺はそのまま話すのも何なのですぐさま、近くにあった自販機で冷えたウーロン茶を二本買った。

そして間髪入れずに立石に一本放る。

 立石はさすがの反射神経でそれをあわてることなく受け取る。

 俺は立石の隣に腰を下ろして、景気良く缶のプルトップを引き上げると、一気に半分位を飲み干

した。小気味の良い音を立てて喉を冷えた液体が通り過ぎる。暦の上では秋でも九月は絶対に

夏の勢力範囲だ。夏休みはもう一月くらい延長した方が良いんじゃないか、と思うくらいだ。

 喉を潤してわずかにクールダウンして落ち着いた俺はもう一度同じ質問を立石にする。

 「で、立石はあさって何をやるんだ?」

 「だから牛の角を」

 「しつこい!」

 間髪を入れない俺の突っ込みに驚きもせず、立石は口元に笑みを軽く浮かべた。そして何か決

心したかのように息を吐くとそれと共に言葉も吐き出した。

 「私がステージに上がるんだ――そういうと語弊があるな。私を含めた四人がステージに上が

るんだ」

 「ってことは裏方じゃなく、主役級で?」

 「一応そういうことだと思う?」

 立石は恥ずかしいのかうつむき加減で話を続ける。

 「尾花の姉さんがテレビ局専属のヘアスタイリストをやっているんだ」

 「へえ、尾花の姉ちゃんが」

 「うん。それで尾花は文化祭の企画で一つ思いついたんだな。そうだ、この姉の力を利用出来

ないかって」

 「へえ」

 「学校から何人かの男女を選んで、でそれを尾花の姉の手によってコーディネートして大変身さ

せてやろう、とまあこういう企画なんだ」

 「……どこかのTV番組であったな、そんな企画」

 「ああ、尾花のアイデアの発端もそこらしい。で、尾花がその計画を姉に切り出すと、姉は意外

にも乗り気で『じゃあ、知り合いの衣装さんも呼んで来るわ』ということになったらしい。」

 「あ、じゃあテレビ局が来るっていう噂は」

 「ああ、それはガセだ。多分テレビ局に勤めている尾花の姉が来るという話に尾鰭がついたん

だろう」

 ……ん。まてよ。ってことは。

 「立石、それに出るの?」

 立石は目を丸くした。

 「そういう話を今までしていたんじゃないか」

 「……だって、それって目立たない女子って烙印押されているようなもんじゃん。お前それに

納得したの」

 「目立たない女と自覚しているからなんとも思わない」

 「でも、何でまたそれに出ようって気になったのさ。どうしたって立石のキャラじゃないぜ」

 「柄じゃないか?」

  面と言われて俺はちょっと気後れる。

 「……まあ、ちょっと」

 「ふん」

 立石は少し不機嫌そうに鼻を鳴らした。そしてしばらくしてから俺を上目遣いで見上げ、そして

言う。

 「尾花に頼まれたというのが理由のその一つ。そして二つ目は」

 立石はじっと俺の顔を覗き込んだ。その澄んだ瞳で。

 「な、なんだよ」

 まるで目を通して俺の心を覗き込むようだった。

 俺は立石に見つめられることが恥ずかしくなり思わず、目を逸らす。

 すると立石は口を開いた。

 「飯尾だって。綺麗な方がいいだろ?」

 「へ?」

 「……付き合っている女が綺麗な方が、いいだろ?」

 「な、なんだよ、それ」

 俺は声を荒らげた。瞬間的に言葉がついて出た。

 「違うだろ、それ。俺はお前だから付き合っているんだよ。綺麗な女が良くて付き合っているん

じゃない。立石だから、立石真美だから付き合っているんだよ」

 ……なんだ。恥ずかしげもない、このセリフは。これが、罰ゲームで付き合い始めた男の言う

セリフか。

 「……」

 立石は穏やかな春の陽射しのような笑みを浮かべて嬉しそうに頷いた。

 ずきん。

 と俺の胸が痛む。

 立石のこの表情は激レアだ。

 それだけに偽りの理由で、その微笑みを引き出したことに胸が痛む。

 「でもさ、せっかくだから。飯尾だって私がどう変わるか興味あるだろう?」

 「……ああ」

 俺は上の空で相づちを打つ。

 なんだろう。この胸の奥にある嫌なもやもやは。立石がやる気になっている。学校で積極的に

他と関わり合いになろうとしている。それは喜ばしいことなんじゃないか? 応援してやるべきな

んじゃないか?

 だが、心の奥で立石がステージに立つことを賛成していない、俺がいる。

 なぜだろう。俺が反対するいわれは何一つない。自分でもその理由が分からない。

 俺がそう自問自答していると立石はかすかに眉根を寄せ、俺の顔を覗き込んで来た。

 「どうした。何か歯切れが悪いな」

 「いや」

 俺はあわてて表情を取り繕う。

 「楽しみだよ。立石は何番目に登場するの? その四人の中で」

 「最後だ」

 「大トリじゃん」

 俺はおどけたように肩をすくめる。

 だが、表面上の俺のその陽気さとは裏腹に、心の中はどんどん沈んで行った。

 どうして。

 どうして、俺は、立石が綺麗になるというその文化祭での企画を、心の底から喜べなかったの

だろうか。 


中編へ続く