恋人レッスン 

最終話 『恋人レッスン』

作 山下泰昌


 変な夢を見た。

 俺は誰もいない街中に一人居た。

 いつも渋滞している車道には、ただ一台の車も無く、自由に前に進むこともままならない歩道には

人っこ一人いなかった。すっかり耳に慣れた喧噪も聞こえてこない。

 鳥も野良猫もいない。

 薄気味悪いほどの沈黙だった。

 ふと空を見上げる。

 何かを叫びたくなるくらいの、悲しい色の空だった。

 やがてその空から何かが降って来たのに気が付いた。

 白い柔らかいもの。

 雪?

 俺はそう思ってふうわり降ってきたそれを両手で優しく受け止める。

 それは冷たくもなく、小さくもなかった。

 雪ではなかった。

 白くて小さくて軽くて柔らかいもの。

 羽根だった。

 息が止まるほど白い羽根だった。

 まるで、傷つき荒れた心を癒やすような。

 俺はそれをつまんでしげしげと目の前にかざす。

 なんだろう、この羽根は。

 どうして、俺の上に降ってきたんだろう。

 どうして俺はこれを受け止めたんだろう。

 どうして――

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 これでダイヤルを押し間違えたのは三回目だ。

 間違えて掛けてしまった相手に謝りながら舌打ちして、受話器を置いた。

 そしてまた取り上げて、もう一度番号を押す直す。

 今度は間違いない。

 俺は数回繰り返される発信音をかなり苛つきながら、待った。

 『はい、立石です』

 軽い緊張が身体を疾る。

 声は似ているが立石真美ではない。美奈だ。

 「あ、美奈ちゃん? あの、飯尾だけど」

 俺は早口でまくし立てる。

 ……自分でもあわてていると思う。俺は大きく深呼吸をした。気を落ち着ける。

 『飯尾さん?』

 美奈は急に声を潜める。そしてそれと同時に雑音が入らなくなった。たぶん、受話器を掌で包ん

だんだろう。

 『どうしたんですか? 飯尾さん。お姉ちゃんとケンカでもしたんですか?』

 受話器のこちら側で天を仰ぐ。

 美奈に気付かれるほど、立石は如実な態度を見せていたってことだ。

 「……うん、まあ。で、居る?」

 なにが、『うん、まあ』だ。情けなくて心の中で自分に突っ込む。

 『居るけど……。部屋に入ったきり出てこない。夕御飯も食べないって』

 「そう」

 美奈に気付かれないように深いため息を吐く。そして言葉を続けた。

 「じゃあ……また、掛ける。俺から電話が有ったことだけでも伝えてくれるかな」

 『うん。分かった。じゃあね、飯尾さん』

 ゆっくりと受話器を置く。

 そして電話機を抱えるように俯き、頭を掻きむしった。

 こんな時、携帯電話があれば、と思う。携帯なら立石個人に直接連絡が取れるし、例え居留守を

使われてもメールでメッセージを送る、という手段もある。

 だが立石はああいう性格だから携帯電話なんて持っていないし、俺も親父に「自分で金を稼ぐまで

買うな」と言われているので持っていない。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 問題は立石に罰ゲームのことをどう説明するかだ。

 今日、学校を無断早退した立石はそのまま家に帰宅してしまったらしい。とりあえず、知らない場所

に行って行方不明になっているのではないということだけ分かってほっとした。

 せめて話が出来れば。

 ふと枕元の時計を見る。午後十時を過ぎている。もう遅い。立石も明日は学校に来るだろう。その

時、つかまえて話す。それしか無い。

 俺はそう思って鬱々としたものを抱いたままベッドに寝転がった。

 そして次の瞬間、自分で嫌な仮説を立ててしまって、目を見開いた。

 明日。

 明日、立石が学校を休んだらどうするんだ?



 事実、その仮説は実証された。

 立石は次の日、学校を休んだのだ。

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 俺は立石の家を前にして躊躇していた。

 二階を見上げ、立石の部屋の窓を見上げる。窓はわずかに開いている。

 暑いから当然だろう。ということは部屋に居る可能性が高いってわけだ。

 迷うことなどない。いますぐ門のところまで行き、呼び鈴を鳴らす。それだけだ。

 だが、俺はためらっていた。

 今、呼び鈴を押せば、俺を出迎えるのは立石の母親か美奈だ。

 本人以外には会いたくない。

 立石の今までの普段とは異なる行動を見ていれば、その原因は俺にあると容易に想像がつく。

第一、美奈には昨日電話で話しまでしている。

 ……。

 俺は知らずと立石の家に背を向けた。

 そう。別にわざわざ家にまで乗り込んで話すこっちゃないだろ。

 きっと明日には立石も学校に出てくるだろう。

 なら、その時、話せばいいじゃないか。

 ……逃げるのか、俺。この期に及んで。

 クリスマスのデートに誘うのに躊躇していた時とは違うんだぞ。今、逃げたら、俺はもの凄く大事な

ものを無くす気がする。もの凄く後悔することになりそうな気がする。

 迷うことなんか、ない。

 俺は力強く、その呼び鈴を押した。

 

 「はーい」

 聞き慣れた声が扉の向こうから聞こえてくる。そしてどたどたと階段を下りてくる音もする。

 美奈だ。

 俺は少しほっとした。とりあえず、母親よりは話しやすい。

 扉が半分開いた。そして見慣れた顔がこわごわと覗く。

 「飯尾さん?」

 「こんちわ」

 俺は極力平静な表情を務めながら右手を小さく上げる。

 美奈は驚きと悲しみと安堵とを複雑にミックスさせた表情で俺を見上げる。そして余計なことは何も

言わずに大きく扉を開け俺を迎え入れると、一言だけ囁いた。

 「お姉ちゃん、部屋に居ます」

 俺は優しい笑顔を、無理矢理作って美奈に向かって頷く。

 ――よく自分の中にこれだけ表情を偽れる引き出しがあったのかと、自分でも感心した。今まで

気が付かなかっただけでひょっとして俺って演技の才能があるのかも知れない。

 本当は笑顔を作るのさえ、出来ないと思っていたのに。



 靴を脱ぎ、玄関を上がり、階段を登り、立石の部屋の扉の前に到達する。

 ここに来るのは六度目だ。

 一番最初は怪我した立石を送るついでだったけど、その後は何とはなしに来ている。

 いいや、二度目は確か試験勉強で来たっけか。

 そして五度目の時はここでもキスをした。

 いつのまにか、俺の右手には拳が握られていた。気持ち悪いくらいに汗を掻いている。

 その拳で扉を叩いた。

 強く二回。

 そして俺は口を開いた。

 「立石?」

 ……声がかすれている。情けない。

 俺はもう一度言い直した。

 「立石? 俺、飯尾だよ。開けてくれないかな?」

 部屋の中で何かが反応する気配がした。だけど、一分近く待っても中から声は返っては来ない。

 俺は扉に額を突き項垂れる。

 「立石。話をさせてくれよ」

 この薄い木製の板の向こうには立石がいる。いますぐにでもこの板っぺらを蹴破って部屋に押し

入って、その耳元で説明をしたい衝動に駆られる。

 だけど、その心をぐっと押し殺す。

 俺は呟くように、だが中の立石には聞こえるようにはっきりと声を出した。

 「立石。罰ゲームのことは悪いと思っている。それで、それを黙っていたことも悪いと思っている。

謝る。ごめん。でも、でもさ。立石と付き合っていて楽しかったってのは本当、なんだ。立石と毎日、

話したり、一緒に下校したり、遊んだりするのは本当に楽しかったんだ。だから」

 一度、言葉を切る。そして誰も見ていないのに扉に向かって頭を垂れた。

 「ごめん」

 部屋の中で何らかの反応はあった。衣擦れの音がした。だが、それからたっぷり五分経っても立石

は部屋から出ては来なかったし、何も言わなかった。

 俺は目を瞑った。

 駄目なんだろうか。

 出直した方が良いんだろうか。

 俺はそう思って立石の部屋を背にして、短い廊下を辿り、階段を下りようとする。するとその階段の

陰に美奈が居た。

 美奈は驚いたように身をすくませて、項垂れる。

 「ごめんなさい」

 立ち聞きをしていたことを謝っているのだろう。

 でも、立石がなぜ鬱ぎ込んでいるのかを心配だったんだ。それは容易に理解出来るから、俺は何

にも言わなかった。

 それに謝りたいのはこっちの方だ。俺は首を二回横に振って、そのまま美奈の脇をすり抜け階段

を降りかけた。

 その時。

 俺の背後から、きぃと蝶番が軋む音がした。俺の身体は過敏に反応して即座に立ち止まる。

 目の前の美奈が大きな目を更に大きくした。そして口元に手を当てて小さく叫ぶ。

 「お姉ちゃん!」

 俺はすかさず、振り向いた。扉はほんの数センチしか開いていなかった。立石の姿もそこからは

見えない。ただ、立石の部屋の灯りがわずかに廊下から漏れていた。

 俺は勢い良くその扉に飛びついた。そして手を掛け開こうとする。

 だが

 「待て」

 え?

 部屋の中から呟くように言い放たれたその言葉に俺の身体は凍ったように固まった。

 久しぶりに聞いた立石の声だった。

 だが、今まで聞いたことのないような冷たい声だった。もともと抑揚のない声だったが、それは凍て

ついたような声だった。

 「立石」

 俺は思わず声を掛けていた。だが扉の向こう側は何の反応も無い。

 もう一度呼び掛ける。

 「たてい」

 「多分」

 俺の言葉を遮るように扉越しに立石が言った。

 俺は思わず口ごもる。

 立石が初めて言葉を発した。初めて言葉を交わすチャンスが訪れたんだ。

 せっかくのその好機を俺が無駄に刈り取ってはいけない。

 俺は押し黙る。

 それからしばらくの間、沈黙が支配した。そして頃合いを見計らったように立石はゆっくりと言葉を

継いだ。

 「……罰ゲームだろうなって少しは予想はしていた」

 立石はそこまで言って一度言葉を止めた。

 次の言葉が出るまでの沈黙がやけに長く感じる。

 「だけど、少しは本気にしてたんだけどな」

 言いにくそうに戯けた感じの声が聞こえてくる。無理矢理感情を押し殺しているような声。

 「いや、だから、初めはそうだったんだけどさ」

 俺はあわてて言葉を挟もうとする。だが、それはやはり鋭利な刃物のような立石の言葉によって

遮られた。

 「初めが……初めが嘘だったのなら、私は何を信じればいいんだ?」

 身体が凍った。立石のその言葉に俺の身体は身動きすら取れなくなった。息すら出来ないほどに。

 「――もう、何を聞いても嘘にしか聞こえない」

 ぱたん。

 何かの象徴のように、扉が閉まった。

 俺はその扉を開けられない。

 その扉越しにもう声を掛けることも出来ない。

 薄っぺらいほんの三センチもない扉。

 だが、そのたった三センチすら俺は越えることも出来なかった。

 「飯尾さん」

 背中に美奈の気遣うような、それでいて疑うような声が聞こえてくる。だが俺はそれにも答えること

が出来ない。そもそも美奈の目を見ることが出来ない。

 俺は早足で美奈の脇を通り過ぎた。

 「あ」

 美奈は俺に何か声を掛けたがっていたが、無視した。

 階段を降り、玄関を降り、スニーカーを履く。

 こんな時に限って、なかなか履けなかった。

 自然と苛立つ。

 必死にスニーカーを履こうとしている自分が馬鹿のようで腹立たしくなる。

 俺はスニーカーの踵を潰したままで立石の家を飛び出した。

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 俺はどこかの公園に居た。

 見たことのない小さい公園だった。

 ベンチとトイレと、そして砂場しか無いような小さい公園だった。

 遊んでいる子供すらいない小さな公園。

 もうすでに夕陽が落ちかけて来ていて、辺りは闇に包まれようとしたからそのせいかも知れないけど。

 俺はベンチに座り込む。

 なんだろう。俺はなんでこんなに落ち込んでいるんだろう。

 立石に罰ゲームのことを知られたからか。

 違う。

 そのことによって立石がショックを受けたからだ。

 心を閉ざしてしまったからだ。

 俺の、俺の言葉が届かなくなってしまったからだ。

 ……。

 身体が震えた。

 陽が暮れかけてもうだるように蒸し暑いのに、身体がうすら寒い。

 だけど。

 だけど、もう、どうでもいい。



 突然、至近距離で砂利を踏む音が聞こえた。

 驚いて顔を少し上げる。

 目の前に足があった。

 女性の足だった。

 立石?

 俺はあわてて上を見上げる。

 「飯尾さん?」

 声質は同じだが口調が異なる。

 ……違った。美奈だった。

 俺は落胆し再び俯く。

 それに、美奈の顔も見ることが出来ない。

 「あの、ですね」

 頭の上から一つ一つ紬出すような美奈の言葉が落ちてくる。

 「細かくは訊きません。だって二人のことだし。こういうのって馬も食わないって言うし。だけど、

どういう風になっちゃっても」

 その言葉に俺はびくりと震えた。

 「これだけは伝えておかないと、と思って」

 美奈は頭の中で言葉をまとめているのか、言葉を一度切った。そして数呼吸後、ゆっくりとその

言葉を紡ぎ出す。

 「お姉ちゃん、飯尾さんに告白される前から飯尾さんのこと気になっていたんですよ」

 え?
 俺は思わず顔を上げる。

 美奈と目と目が合う。

 俺はあわてて視線を外した。

 「お姉ちゃん、ああいう性格だから妹の私にもおおっぴらに言いませんけど、でも一度、私とお姉

ちゃんが電車に乗った時、飯尾さんが居た時があったんです。その時、お姉ちゃんの反応で分かり

ました。ああ見えても意外にお姉ちゃん、分かりやすいんです。それは飯尾さんも知っているでしょう?」

 そんなことがあったのか?

 ああ、そうか。まだ俺が立石に告白する前の話しだからか。俺の視界には入っていなかったんだ。

 ――立石の視界には俺は入っていたのか。

 素振りすら見えなかったのに。初耳だった。

 「飯尾さんの写真も極秘入手していたんですよ。一年の時のスポーツ大会だか何だかの写真。お

姉ちゃんのアルバムで見ましたよね?」

 ……あれか。

 初めて立石の部屋に行った時の立石が強硬に隠し通したヤツか。

 誰の写真かと思ったら、俺の写真だったんだ――

 「だからお姉ちゃんの気持ちをもっと大切にして欲しいなって」

 ……。

 「でもなんだかんだ言って、私、飯尾さんがお姉ちゃんと付き合って嬉しかったんです。ウチ、ほら

男の兄弟いないじゃないですか。だからお兄ちゃんが出来たらこんな感じかなあって。それに本当

にお兄ちゃんになったら嬉しいなって思っていたんですけど……勝手ですね、私」

 照れたような息づかいが頭上から聞こえてくる。

 「……それじゃ」

 そしてしばらくその場で足踏みをしていた美奈は思い切るように反転すると駆け出す。砂利を踏み

しめる足音が俺からどんどん離れていく。

 また、俺の周りには夕闇が立ちこめた。

 俺はようやく顔を上げた。

 空は群青色が茜色を駆逐しようとしている。

 その合間をぬって淡い光を湛えた月が顔を出していた。

 なぜかその月の光が目に滲みた。



 最低だ、俺。




中編へ続く