恋人レッスン 

最終話 『恋人レッスン』 中編

作 山下泰昌


 「さすがに責任は感じている」
 
俺が休み時間に机で俯せになったまま寝ていると脇から北村がぼそりと呟いた。俺は顔を上げて

何事かと北村を見上げる。

 いつにない真剣な表情の北村がそこにいる。

 やめてくれ。北村らしくない。

 俺はぷらぷらと右手を振った。

 「いつまでも隠していた俺が悪いんだよ。本山が言っていた通りだ」

 その通りだ。北村と本山に対しては悪感情は全くと言って無い。全ていけないのは俺だ。

 北村が尾花から仕入れてきた情報によると立石は今日から登校していると言う。北村はわざわざ

その様子を見てきて、「あまり落ち込んでいるようには見えない」と言った。

 正直、そんな報告はあまり聞きたくなかった。

 第一、立石に会っても俺は一体、何を言えばいいんだ。

 俺の言葉は立石にとってもう全て「嘘」に聞こえる。だったらいくら飾った言葉を言っても、まして

本当の心を伝えてもどうにもならない。

 立石の目を見るのが怖い。

 今、立石に、全てを拒絶するような冷たい目で見られたら俺の心は粉々になる。

 馬鹿か、俺は。

 粉々になっているのは立石の方だ。

 俺には何の言い訳もする権利はない。

 再び、机に俯せた。

 どうしたらいいんだろう。

 どうしたら立石に俺の言葉を伝えることが出来るんだろうか。

 「やっぱ、もう一度会って話した方が良いと思う」

 俺の後ろの席に陣取っていた本山が読んでいた漫画雑誌から顔を上げてぼそりと呟いた。

 「俺と美奈とで段取ってやるからさ。な、やっぱ直接目を見て話した方が良いって」

 もう一度?

 ああ、そうか。本山はある程度美奈から聞いているんだ。だから一度立石と会っていることは知っ

ているんだ。

 「ああ、そうだな」

 俺は俯せたまま、感情のこもっていない声でそう答えた。

 会ってどうなる。

 会ってもどうにもならないような気がする。

 俺には解決策が全く考えつかない。

 「そこでさ、お前の本当の気持ちをちゃんと話すんだ。いいな」

 「そんなの」

 話した、さ

 と言いかけて俺は口を噤んだ。

 話した、か? 俺。

 それに俺の本当の気持ち、ってどうなんだ?

 俺の気持ちって?

*****************************************

 放課後。

 下足ロッカーで、気怠げに上履きとスニーカーを履き替える俺。

 スニーカーの踵の形が崩れているのを見て、昨日の事を思い出しわずかに憂鬱になる。

 今日は結局の所、立石とは会わなかった。

 時々教室移動の時、立石の教室を覗き込んだ位だ。

 とりあえず外見は尾花と何やら話をしている普通の立石だったので、ほっとした。

 他力本願で情けないけど、本山たちの力を借りることにして、今日の所は帰ることにする。

 立石も日にちが経てば、少しは俺の話を聞こうという心のゆとりが出来るかもしれない。

 そう思って昇降口を出た時に俺は見覚えのある顔に出逢った。

 その小学生のような背格好の女子と目が合うと、俺は思わず飛び上がった。

 「先輩」

 壬生だった。

 壬生は俺から微妙に距離を取りながら妙な意味の籠もった瞳で俺のことを見ている。

 ……その瞳の意味が分かった。

 なんだ。もう壬生まで知れ渡っているのか。

 相変わらずウチの学校の情報伝達速度には舌を巻く。

 俺は無言で壬生の脇をすり抜け、そのまま歩き出す。

 壬生は何も言わずに俺の右斜め後方から付いてくる。

 校庭を通り抜け、校門を潜り、駅に向かう大通りを行く。

 壬生も黙って俺の右斜め後方に位置し同じ距離を保って付いてくる。

 ……。

 俺は立ち止まった。そしてうんざりするように振り返る。

 「なに?」

 壬生も立ち止まる。そして俺を見上げる。

 その瞳には、憐れみの色はあるが、それでも貫くような強い視線は壬生のものだ。

 壬生はしばらく俺の瞳を覗き込む。まるで、その先にある心の中まで読みとろうとばかりに。

 「先輩、元気無い」

 壬生は俺の目を直視したまま単刀直入に言った。

 「そりゃあ」

 と言いかけて口を噤む。

 口に出して言うこっちゃない。それに壬生にそういう事を話すのは何か筋が違う気がした。

 「何か用?」

 「用が無くちゃ話しちゃいけないんですか?」

 「いや、そんなこと無いけど。ついてくるし」

 「それはたまたま同じ時間に、同じ方向に帰るからですよ。それが更に知り合いだったら普通話し

掛けると違います?」

 「……その通りです」

 俺は諦めたように肩を落とすと、再び駅に向かって歩き出す。

 壬生も同じ速度で歩き出した。今度は俺の真横に。

 「先輩、結局文化祭の後の保健委員の仕事来なかったでしょ」

 え? そんなのあったっけ?

 俺はあわてて頭の中の記憶庫をスキャンする。

 ……結果、お探しのファイルはありません。

 多分、ゴミ箱に捨ててしまったか、それとも丁度ハードディスクがクラッシュしていた時だったかの

どっちかだ。

 まあ、間違い無く後者だけど。

 「まあ、先輩が来ないってのは分かり切っていたから問題ありませんけど」

 「すみません」

 俺は間髪空けずに答えた。

 一呼吸置いて壬生はすぐに口を開く。

 「先輩、振られたんだって?」

 単刀直入。

 一刀両断。

 俺は唖然として思わず立ち止まり、壬生の顔を見る。

 壬生は普段と全く変わらないポーカーフェイスで俺の顔を見上げる。

 「お前さ、そういうこと普通訊くか」

 「ってことはやっぱり噂は本当だったんだ。先輩が立石さんに振られたっていうの」

 「振られてねえよ」

 「なんだ。まだ終わっていないんだ」

 「……だからそういう事、普通言うかな」

 俺はそう毒づいて再び歩き始める。少し壬生を置き去り気味にするために早足で。

 壬生はその小さな歩幅を最大限に回転を早めて俺と併走する。

 ちょっと待て。

 俺はあることに気が付いてぎくりとする。そして再び立ち止まる。

 終わった?

 ひょっとして、俺が気付いていないだけで、「終わって」しまっていたんだろうか。

 俺が勝手に修復出来ると考えているだけで、立石の中では終わってしまっているのかも知れない。

 単なる一悶着と俺が思っているだけで、立石の心はすでに俺から離れていってしまっているのかも

知れない。

 マジかよ。

 ――巨大な喪失感が襲ってきた。

 胸を掻きむしりたくなる位の酷い喪失感が。

 その時、同時に知る。

 これほどまでに俺の中の領域を占めていたものに。

 俺は身体がすかすかになったような気がして思わずしゃがみ込む。

 身体に力が入らなかった。

 「先輩、どうしたんですか!」

 壬生が屈んで俺の背に手を当てる。

 その時、俺は見た。

 立石の姿を。

 立石はいつもと変わらぬ素振りで下校しようとしていた。

 だが、いつもと違うことが一つあった。

 立石の隣には男が居たってことだ。

 学校の方から歩いてくる立石はその男と並んで何やら話しながらこっちへ向かってきた。

 男の顔は見た事がある。確かA組の奴だったと思う。クラスの女子の間でも結構話題になっている

イケメンだった。あいつが立石に告白した奴の一人だったのか。

 目を逸らしたかった。だけど目は釘付けにされて瞬きもすることは出来なかった。

 やがて俺達の距離は縮まる。

 立石は目の前にうずくまっている俺に気付く。

 一瞬、目を見開いた。だが、すぐに元の無表情な顔に戻り、視線を逸らした。

 鉄仮面。

 昔の立石のそんなあだ名を思い出す。

 立石達はどんどん距離を狭めてくる。

 三メートル、二メートル、一メートル。

 そしてついに俺達はすれ違った。

 だが立石は視線も合わさなかったし、言葉も発しなかった。不審な行動も取らなかった。

 全くの自然体で俺の脇を通り過ぎた。

 

 終わったんだ。

 そして俺は立石が好きだったんだ。

 

 俺はそう感じて頭を垂れる。

 この期に及んで初めて気付くなんて本当に俺は大馬鹿だった。

 壬生は歩み去った立石の後ろ姿を睨み付けている。

 「最っ低」

 俺は力の入らない身体に無理矢理鞭を入れて立ち上がった。少しふらつくような気がする。

 「先輩」

 壬生が駆け寄ってくる。

 とんでものないものでも見たように驚いた表情をしている。

 ……俺、そんなひどい顔をしてんのかな。

 俺は笑顔を作ろうとしたが、無理だった。笑顔を作るパワーが身体の中に残っていなかった。少なく

とも今は、ゼロだ。

 壬生は一瞬悲しそうな顔をした。

 「先輩……」

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 「せんぱーい。次はあれ乗りましょうよ! ほら、あの機関車みたいなヤツ」

 俺はなぜか遊園地に居た。

 千葉県にあるはずなのに、『東京』の名を冠している有名な遊園地だ。

 今日は水曜日。

 別に振り替え休日でもないし、創立記念日でもない。

 じゃあ、なぜ平日のこんな真っ昼間に遊園地に来られるかというと、早い話が学校をサボってるわ

けだ。

 制服のままで来ているがこの遊園地は遠方の高校生が修学旅行で来たりするので、あまり目立

たない。

 いつもの俺だったら、壬生と一緒になんて来なかったかも知れない。でも、今日は心の隙を突かれ

た格好でついOKしてしまった。

 朝、駅でばったり会った壬生に

 「先輩、ガッコ、サボっちゃいません?」

 といつもの強引さで、ついつい押し切られた格好だ。

 朝の開園と同時に入って、それからずっと壬生に引っ張り回されている。

 はっきり言って腹ぺこの上に身体はぐたぐただ。

 だけどおかげというか何というか、何にも考えずに身体を動かしているせいか、ここ数日、腹の底

にわだかまっていた澱のようなものの存在を忘れかけることが出来た。

 「ほら、先輩早くしないと!」

 「別に早く行かなくても無くなりゃあしないよ」

 「無くなっちゃいますってばっ!」

 ……無茶苦茶だ。

 「……ところでさ。そろそろ飯食わねえ? さっき通ってきたところにレストランがあったぜ」

 俺がそう言うと壬生は「ふふ」と笑い、肩をすくめた。

 「良かった。少し元気になりましたね」

 「え?」

 「お腹が空くってのは、健康的な生命活動をしようって現れですよ」

 壬生はそう言って俺の左隣に陣取ると俺の腕を取ってレストランの方向へと俺を促す。

 「お、おい」

 俺は壬生に促されるまま身体を流す。

 天を仰ぐ。

 蒼い空には鰯雲が幾重にもたなびいている。

 まだまだ陽射しは強く、少し歩いただけで汗を掻くほどだが、風のどこかに冷たさを含んでいるよう

な気がする。

 絶好のデート日和だった。

 考えたら、壬生とまともなデートをするのはこれが初めてのような気がする。

 壬生と一緒に行動したのって、学校の保健委員の仕事を抜かしたらかなり前にお好み焼きを食い

に行ったきりだ。

 立石とは。

 何だかんだで結構デートしたな。

 初めは図書館とか云う訳判らないデートだったな。立石の空手の演武も見に行ったし、一緒にプール

にも行ったな。

 あと、お互い暇な時は大した理由もなく町中をぶらぶらしたっけ。

 「先輩っ!」

 強く壬生に腕を引っ張られて俺は、はっと我に返った。

 「先輩、今何考えていました?」

 壬生は眉根に皺を寄せて詰め寄る。

 「え、いや」

 壬生は不審そうな視線を俺に向けた。

 「別に。早く飯食いたいな、と思っていただけだよ。だから早く入ろうぜ」

 そしてさっき目を付けていたカントリースタイルのレストランに壬生を促す。

 「うーん。なんかごまかされているような気がするなあ」

 「気のせいだよ」

 壬生って、どうしてこう鋭いんだろう。

 俺は背中に汗を掻きながら壬生をレストランの中へ押し込んで行った。

*****************************************

 レストランは割と広かった。

 椅子やテーブルの数もとんでもなく多い。

 当然人も多かった。

 やっとこさ空いているテーブルに着き、カウンターに書かれているメニューを遠目に見る。

 カレーライスとハヤシライスばっかりのメニューだった。どうやらここはそういう専門店らしい。

 「じゃあ、私エビフライカレーにしようかな」

 「壬生だったらお子さまカレーでも問題ないな」

 「あ、ひどーい。結構気にしているのに。っていうかそんなカレーここに無いですよ」

 「悪ぃ。悪ぃ」

俺はそう適当に謝ってから自分のカレーを選ぶ。

 「……俺はハンバーグカレーにしようかな」

 立石だったら何を選ぶかな。

 そう言えば立石って好き嫌いあまり無かったな。

 それとも俺が知らなかっただけかも知らないし。

 立石の弁当食べたのいつだっけ。……一週間前くらいか。

 もう、もの凄く前のような気がする。あの弁当、良く説明出来ないけどおいしかったな。でもいつか

あの味も思い出せなくなるんだろうか。

 「先輩っ!」

 俺は我に返った。

 目の前にはいつの間にか水をコップに入れて二つ持ってきた壬生が上目遣いでこちらを睨んでいた。

もの凄い不機嫌そうだ。

 「……先輩。今、何考えていました?」

 「い、いや」

 壬生は俺の前に一つコップを置くと深くため息を吐いた。

 「……なーんか、先輩の考えていることって透けて見えるんですよね」

 「違うよ。俺、やっぱりハヤシライスにしようかな? とか迷っていただけだよ」

 「ふーん」

 壬生は疑わしそうな目で俺を一瞥する。

 「余計なお世話かも知れないけど……先輩、今日は余計なことを忘れてもらうために来ているん

ですからね。はやく吹っ切った方がいいですよ。所詮、一過性のものなんですから」

 一過性か。

 そうかも知れないけど、なんかそう考えるのは厭だな。

 「さ、じゃあご飯、取りにカウンターへ行きましょう! そろそろ十二時だからどんどん混んで来ちゃ

いますよ!」

 「ああ、そうだな」

 俺も腰を上げた。

 立石は――

 ――ちゃんと飯、食っているかな?

*****************************************

 その後、いくつかのアトラクションに乗った。ジェット機を操縦するヤツとか、列車に廃鉱の中を駆け

抜けるヤツとか、かなり楽しんだ。

 だけど、その瞬間瞬間は楽しいんだけど、それを降りたとたん、すぐにとんでもない虚脱感が襲い

かかってくる。

 心に重くのしかかっていることがぶり返して来る。

 「ねえねえ、このストラップ可愛くありません? 先輩どうですか?」

 遊園地の入り口近くのショップに俺達は居た。

 「俺、携帯持ってないから。だいたい似合わないって」

 「ええー、そんなこと無いのになあ」 

 壬生とそう会話しながらも俺はちらりと時計を見た。

 午後一時二十五分。

 今からここを出れば学校の終業時間にはまだ間に合う。

 今から学校に行けばぎりぎり、会うことは出来る。

 まだ、間に合うかも知れない。

 「先輩?」

 壬生が俺の方を見て不思議そうに首を傾げた。

 終業時間直前に立石をつかまえよう。

 そして話すんだ。

 俺の本心を話すんだ。

 「先輩ってば?」

 壬生はしばらく俺の目を見ていた。

 俺も壬生を見返す。

 壬生にはもの凄く悪いけど。

 というか壬生と遊んでいても十分に楽しいんだけど。

 立石と一緒にここに来られたらもっと楽しかっただろうな、ってさっきから考えているんだ。

 きっと

 「飯尾。これ乗ってぐるぐる回っているだけで、一体何が楽しいんだ?」

 とか言い出すんだろうな。

 きっと背筋を伸ばして大股で颯爽と園内を歩くんだろうな。髪をなびかせて。

 私服を着て来て欲しいな。それも立石定番のGパンとかでなく、大人し目で構わないから可愛らしい

スカートでも履いて。

 それで、ちょっとでいいから笑ってくれれば、それで充分だ。

 ……思い出す、立石の笑った顔。

 怒った顔、照れた顔、驚いた顔。

 立石の姿、立石の身体、立石の髪の毛、立石の肌、立石の瞳、立石の鼻、立石の唇、立石の胸、

立石の声。

 どうしてこんなに気になるんだ。

 会いたい。無性に会いたい。

 もう駄目なのかも知れないけれど。

 だけど、独りよがりと思われようと、最後に俺の本当の気持ちだけは伝えたい。

 俺は壬生に向き直る。

 覚悟を決め、すうっと息を吸う。

 「……いやだ」

 「え?」

 俺が言葉を吐こうとする前に壬生が機先を制した恰好で割り込んだ。

 「……ううん。なんでもないです」

 壬生は無理矢理明るい笑顔を取り繕っていた。

 だが、その顔は真っ青だ。

 その顔を見ていると俺はもの凄く言い出し辛くなる。

 だけど言わなくちゃいけない。

 「壬生、ごめん。俺、これから学校に行けなくちゃいけないんだ」

 「……今から学校に行っても授業は終わってますよ」

 「悪ぃ。それでも行かなきゃなんねえんだ」

 「ふうん」

 壬生は最高につまらなさそうに相づちを打つ。

 そして視線を地面に落として、ぼそりと呟くように言う。

 「何が違うんだろ、私と」

 ぎくりとする。……どうしてコイツはこう勘が鋭いんだろう。それとも俺がミエミエなんだろうか。

 壬生は可愛い。

 強い意志を示す真っ直ぐな瞳は綺麗だし、しっかりと自分という物を意識した生き方は尊敬すらする。

 たぶん、こいつと付き合っても楽しいんだろうなって云う気はする。

 でも、凄い勝手な言い分で申し訳ないのだけど、俺の心のベクトルは壬生には向いていなかった。

無愛想な物言いで表情の変化も乏しい女の子に向かってしまっていた。

 もうこの矢印の向きを変えることは出来ない。少なくとも今の俺には考えられない。

 「ごめん」

 俺はいろいろな意味を込めたその言葉を放った。

 「謝らないで下さい」

 俺が言い終わるやいなや壬生は言葉を挟んできた。

 そして下から俺のことを睨み上げる。

 ……かと思いきやいきなり満面に笑みを浮かべてきた。

 「ええと、先輩。一つだけ言っていいですか?」

 「あ、ああ」

 何を言われるんだろうと内心不安な俺はわずかにびくつく。

 「仮にも女の子とデートしている時はですねぇ」

 そして身体を思い切り捻って反動を付ける。

 嫌な予感がして背筋に寒気が走った。そして嫌な予感というのは良く当たる。

 「他の女のことは考えるなあっ!」

 「う」

 ボディに壬生渾身の右ストレートが突き刺さった。

 だけど、立石のように空手をやっている訳でもない壬生の拳は俺の腹にたいしたダメージは与え

なかった。辛うじて持ちこたえたことに余裕が出て、壬生に話しを続けようとした時、壬生のその姿

を見て思わず固まった。

 壬生は右ストレートを放った状態のまま俯いて身体を震わせていた。

 「壬生」

 壬生は俯いたまま首を数回横に振った。顔は見えない。見せたくないんだろう、壬生の性格から

言って。

 心が痛んだ。

 壬生の右ストレート、身体ではなく心にぐさりと来た。

 「壬生」

 俺はもう一度呼ぶ。

 「ああ、もう、うるさいうるさい! さっさと行けぇ!」

 壬生は顔を伏せたまま叫ぶ。

 俺は何を言ったらいいんだろう。

 ここで肩を抱いて優しく諭しても、頭を下げて謝っても、仕方がないような気がする。

 かといってこのまま去る訳にもいかないし。

 俺が次の行動に対して躊躇していると壬生がか細い声で「ごめんなさい」と呟いた。

 「……もともと先輩を元気づけるために誘っただけなんですよね。勝手でした」

 「いや」

 でも今の壬生の気持ち痛いほど分かる。痛いほど分かるだけに放っておけない。

 「どっちつかずの態度を取ることほど残酷なこと無いです」

 ……心を読まれた。

 「だから先輩。行って下さい。私は大丈夫ですので」

 そう言って壬生は顔を上げた。満面の笑みを浮かべて。

 涙は抑えたらしい。でも目が真っ赤だった。

 「ご、ごめん。あの、俺それでも、壬生のことは」

 「それも駄目です。下手な同情は」

 「すまん」

 俺は思いきり頭を下げた。そして駆け出した。

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 「ばかやろー」

 壬生は人混みの中一人うずくまった。

 そして慣れない右ストレートを放ったために少し腫れている右手首を押さえながら一人ごちる。

 「……痛いよお」

*****************************************


後編へ続く