まずは日本橋から出発。日本橋といえば三越、高島屋、少し離れて日銀。歩いて渡った覚えはほとんどない。
 「日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603年)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤(歌川)広重の錦絵でも知られています。」 (橋の袂に立つ中央区教育委員会名の看板より)

橋の欄干を飾る麒麟


 次に回ったのが江戸城。バスで大手門から反時計回りで一周半、北詰橋門から東御苑へ入る。一人ずつ小判型のプラスチック札をもらって出口で返す。出入り口は、大手門・平川門・北詰門の3か所あるが、天主跡が高台にあり、大手門からだと上りになる。楽なのは今回入った北詰門からだ。ここからだとほぼ下りの行程になる。
 宮内庁ホームページには、東御苑の略図や花だよりが掲載されている。

天主跡の石垣

東御苑から見る 富士見櫓


 京橋から銀座七丁目までを歩く。京橋の袂には「江戸歌舞伎発祥の地」の碑。銀座中央通の伊東屋前に「銀座発祥の地」の碑。銀座七丁目には「植えてうれしい銀座の柳」と書かれた「銀座の柳」の碑。普段通り過ぎている街角にも、いろんな「碑」が建っているものだ。

 田町には「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見の地」の碑。高輪は「史跡 高輪大木戸跡」がある。そこから泉岳寺へと回る。墓石に花と線香の煙が絶えない。きれいに作られた御影石の手すりには、寄贈者に東宝・松竹・東映の名が彫られていて、さすが「四十七士の墓」。


 ホテルパシフィック大志満で昼食の後は、品川宿へ。第一京浜から旧東海道の商店街へ入ると所々に古い商家が残っている。途中、菊すし総本店の前には、衆議院議員だった宇都宮徳馬氏の名になる板に彫られた「問答河岸由来記」がある。
 かって海岸先に波止場があり、3代将軍徳川家光が東海寺に入るとき、沢庵和尚が迎え出て問答をした故事にちなむ。「大軍を率いても将(小)軍とはこれいかに」と俗に言われる。
  品川宿本陣跡を訪ね、荏原神社へと回る。品川(ほんせん)寺には江戸六地蔵の一つがある。江戸六地蔵とは第1番がここ品川寺(東海道)、2番東禅寺(山谷:奥州街道)、3番太宗寺(新宿:甲州街道)、4番真性寺(巣鴨:中山道)、5番霊巖寺(深川:千葉街道)、6番永代寺(廃寺=深川:千葉街道)となっている。正徳2年(1712)地蔵坊正元が10年がかりで江戸中からの浄財よって、旅人と江戸市民の安全を祈願して各街道口に建立した、とのこと。
 品川宿は「まちづくり協議会」が活発に活動しており、旧道に沿って設置された「お休み処」で「まち歩きマップ」を配布している。協議会が作っているホームページ<東海道「品川宿」>に詳しいガイドが掲載されている。

懐かしい作業風景


 八百屋お七(おひち)が張りつけ、火あぶりになった場所としても有名な鈴ヶ森。火炎台や首洗いの井戸などがまだ残されている。供養の碑の前に曼珠沙華が真っ赤に咲いていた。

鈴ヶ森刑場跡に咲く曼珠沙華


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