その1


 いよいよ昨年9月から始まった「10回で東海道」も最終回。2泊3日となってツアー料金も高くなり、財布の中はさびしくなってきた。そのためばかりではないだろうが、最終回の参加者は10人、かろうじて2桁を維持した。


 ということはさておいて、前回は「熱田の宮」まで。今回は「桑名」から。この間の東海道は海上の道である。ということで、名古屋で新幹線を降り、最初にバスで向かったのが桑名の浜「七里の渡し」。昔の宿場の名残か、途中の道筋には料理屋が多い。

桑名宿 七里の渡し


 桑名城あとを整備した九華(くわな ―> くはな)公園は、松平定信没後100年を記念して昭和3年に整備された。桑名城は別名「扇城」とも呼ばれたそうで、現在の九華公園は、三方を池に囲まれて花の名所となっている。市の花は「花菖蒲」で、公園の街路灯の上には、花菖蒲をかたどった飾りが付いている。
 テントで囲まれた中をのぞいたら少年相撲のための土俵が作られていた。

少年相撲の土俵


 春日神社前に立つ銅の鳥居は寛文七年(1667年)桑名藩主松平定重が、250両をかけて建立したもので、俚謡に「勢州桑名に過ぎたるものは青銅の鳥居に二朱女郎」とうたわれている。、「二朱」は「二朱判銀」で二枚を銀一分に、八枚を金貨一両に替える。一分以上掛かる遊女が高級遊女で、「二朱女郎」は一段落ちる遊女だそうな。

春日神社本殿


 昼食は創業100余年、蛤料理の老舗 魚重楼で蛤のフルコース。「焼き蛤」の名前は知っていたが、食べたのは初めて。貝を二つに割って、片方の貝殻で貝柱まできれいにこそいで食べる。実がたっぷり、ふっくらとして美味しかった。

これが「桑名の焼き蛤」


  桑名 寺町商店街はアーケードになっていて、路面もきれいに敷石されていたが、平日昼過ぎのせいか、歩いているのはお年寄りと我々ツアーの一行だけだった。それでも空き店舗なく商店街になっていたので、夕方や週末には買い物客がそこそこ集まるのだろう。

寺町商店街


 「追分」は分かれ道のこと。「日永の追分」は右「東海道」と左「伊勢街道」の分かれ道である。伊勢街道への分かれ道のため、左へ向かっての鳥居が立っている。この鳥居、2本目の横棒が左右に突き出ていない。これが「伊勢神宮型」で、「お稲荷さん」の場合は左右が突き出ている。鳥居の足元に湧き水が出ていて、近所の人がペットボトルに汲んでいた。

詳しくは「鳥居の形のいろいろ」をご覧ください

日永の追分


 日永の追分から内部川を渡って旧東海道へ入る。「杖衝坂」は東海道の中でも急な坂道で知られる。案内板には「日本武尊(やまとたける)が東征の帰途、大変疲れられ『其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、稍に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ』(古事記)とあり、その名が称せられ」とあった。

杖衝坂


うのはなの にほふかきねに
ほととぎす 早も来なきて
しのびねもらす 夏はきぬ

 「夏はきぬ」は、東明治5年に東海道44番目の石薬師宿で生まれた佐々木信綱の作詞である。生家は保存され、その隣に資料館が作られている。唱歌にちなんで地区では「卯の花の里」づくりに取り組んでおり、初夏になると各家の庭先、道端に「卯の花」が見られる。

佐々木信綱生家


 夕方近くになり、鈴鹿川を渡ったところで学校帰りの女子高生とすれ違った。夏のセーラー服には、季節感がある。東京では少なくなったルーズソックス、校規違反にならないのだろうか。

学校帰りの女子高生


 本日の泊まりは亀山第一ホテル。そして夕食は当然のこと松坂牛でした。

 

 その2へ続く


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