“私のインドネシア”

東京 井内わか (わかちゃん)
パソコン入力&写真&写真の説明:コキリ

カット:椰子の木 ヒッポのメンバー22名(幼児〜熟年までの男女)と一緒に’95.8.16〜8.24まで、赤道直下、灼熱の国インドネシア(実際には、今年の夏は日本の方が暑かったのですが‥‥‥)へ行ってきました。

 ジャカルタのホテルで1泊し、その後ホームステイ5泊をした場所は、“ボゴール”というジャカルタから高速道路で1時間走った避暑地。昨年、APEC国際会議の開かれたボゴール宮殿を含む植物園、世界一大きな花の咲いていることで有名な学園都市でした。
 ’95年はインドネシア共和国建国以来50年の“独立50周年記念”の年。その上、ホームステイ第1日目は、そのまさに独立記念の日8月17日ということでした。(私は、この日を目指して、この国へ来たわけでも何でもなく、まだ行ったことのない国だし、インドネシア語の中へ飛び込んでみたくて何となく申込みをしただけなのにラッキーでした)
 その為、インドネシア中がこのお祝いで湧いていて、メインの道路にはまるでヨーロッパのクリスマスの時のようなキラキラとしたネオンの飾りつけがいっぱい。テレビは連日“デリガハユー・・・・・・インドネシア”(インドネシア独立50周年おめでとう!!)と叫びながら特別番組を組んでいました。

 さて、ヒッポの私たちはそんなまわりの状態のことはつゆしらず、ただ、どんなホスト家族の中へ入れるのだろうと、少しの不安と沢山の期待で一杯でした。というのも今年はボゴールとの交流が初めての上、受け入れ家族がなかなか決まらず、ホストの名前が解ったのが出発の2日前で、家族のことも何も解らず出発したのです。ただ、情報としては、“ボゴール農科大学の先生が中心になってコーディネイトして下さっていて、受け入れしたい人が多すぎて、2軒にホームステイをすることになった人が半数いる”というだけのものでした。
 そして、ジャカルタの“スカルノ・ハッタ空港”へ着いて(往路のガルーダ航空はとても快適で機内食もウナギやおそばが出て驚きでした)外へ出てみると、満面笑顔のサレーさん夫妻や他にAOTSの人達2人が、ヒッポの旗をふって待っていて下さり、すべての不安は吹き飛びました。
 受け入れ団体はAOTSといって、日本でよくみんなが1泊ホームステイで受け入れをしているTKC(東京研修センター)KKC(関西‥‥)YKC(横浜‥‥)CKC(中部‥‥)etc.などの人達が、自分の国へ帰って作っている同窓会で、その有志達が全くのボランティアでやってくれているのです。

ジャカルタ夜景写真:ホテルインドネシアの近くにて。独立50周年できれいに飾り付けられたジャカルタのメインストリートをバックに記念撮影。向かって左から3番目が、わかちゃん。 (photo by コキリ)

−最初の日の夜−

 ジャカルタのホテルインドネシアでの夕食は、50周年記念日の前夜ということで、民族音楽の生演奏や踊りが入り、料理もエナック・スカリーで、“インドネシアの匂い”にどっぷりつかり、旅の疲れもフッとんで子供達も皆、活き活きとしていました。

 その後ホテルの一室に皆で集まり、明日の対面式と、ホームステイ最後の日のThank’sPartyをどうするかの相談をしました。このグループはインドネシアへ来る前から何回か本部に集まっていろいろ話をしたり、お互いのファミリー活動の所を往ったり来たりしていた人が多かったので、大体気心も知り合っていて気楽な感じでした。
 さて、対面式をどうする?
 インドネシアとの交流は第4回目だけど、今までヒッポをしたことがなく、いつもカラオケ大会と食べるだけになってしまっているとか‥‥‥今回は何とかしたい‥‥‥
 まず、初めての人達とSADAをやりたいのでオープンスペースの作れる部屋でカセットデッキを用意して欲しいということをサレーさんに伝えたところ、会場がボゴール大学なのでOK、デッキも私が持ってゆきましょう、との事。みんな“やっぱり、SADAをやるだけですぐに仲良しになれるもんネー”とホッとした感じ。
 次に、ヒッポ活動をどう伝えるか?ということになって、いろいろ考えた結果、皆でソノ子のTapeの最初のタイトルのところのヒッポ カサブランラウを言って、その後、1人1人が自分の大好きなことば(中国語でもフランス語でも何でもOK、勿論日本語も、歌を唱ってもOK)を言って、その時何かひとこと、インドネシア語を言おう(ヒッポの場合、Tapeがマレーシア語なので、そのことばで)、ということになった。
 すると、小学生のナミちゃんは、“サヤ スカ クチン”(私、ネコが好き)が言える、とか、皆口々にボクはアンボーイ、バグース!!でいこう、とか、マリキタマイマイだけでいいかな?マッチャントゥーはどう?など大いに盛り上がって、今度は対面式が楽しみになってきた。
 そして、ホームステイ最後の日のThank’sPartyでは、ゆかたを持ってきた人はそれを着たり、小学生のジュンとケイは合気道のカタ(型)が披露できる、とか、コキリとヤッチャン、ピンプの3人でタテ笛(リコーダー)を吹こう、そして、もし日本料理を作って持ち寄ることができたら、各自作ってくること、又、ホストと一緒に何かできることがあれば、その時に即席でやってみよう。あとはSADAをしたり、自分でできる限りのインドネシア語をつかって、身振り、手振り、日本語も入れてもOKだから“ありがとう”の言葉や、感想を言い合おうetc.‥‥‥‥。
 みんなで頭を寄せ会って、チエを出し合うのがとても楽しかった。

−対面式の時−

 バスが着いて案内された部屋はナント大学の階段教室だった。それに到着が遅れたので、ホスト家族との対面が終わったらすぐ家路に着くことになり、昨晩の皆で考えたSADAとか挨拶大会は残念ながらお流れとなった。でも取り敢えず私はヒッポのみんなを代表して、受け入れて頂いてありがとう、と、ヒッポは赤ちゃんのようにことばを習得して多言語活動をしているグループだということ、そして私達も精一杯がんばるのでよろしく!!という意味のことを、ヒッポのTapeの中から、そして活動の時にみんなから聞いた音をたよりにインドネシア語で挨拶した。(後でホストのパパから“わかちゃんのはマレーシア語”と言われたけど、自分ではインドネシア語のつもり!!)
 その時、ひと言“アパカバール.カバルバイク?”と言っただけで、ホストファミリーの人達の顔がパッと明るく笑顔になり、どんなに勇気づけられ、嬉しかったことか‥‥‥。
 ところが驚いたことに、ホストファミリーの人達はほぼ全員、以前日本へ行ったことがある人達で(それも20〜30年前、5〜6年日本に住んだとか‥‥‥)とても日本語の上手な人が家族の中に1人は居るという感じでした。でも、私のカタコトのインドネシア語に大きな声援を送ってくれて、暖かい気持がビンビン伝わってくる、うれしい対面式でした。
階段教室写真(左):対面式をしたボゴール大学の階段教室(photo by コキリ)
わかちゃん写真(右):中央:わかちゃん、左:サレーさん、右:ボゴール大学のビントロ先生(video by コキリ)

(続く)

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