−私のホスト−
初めて出会った私のホストはスラマトさんという67才のお父さんで、30年前日本へ来て、6年間勉強したという、日本人のような日本語を話す最年長の人でした。
そして、対面式の最後に参加者全員に対して、“今夜、ウチの家でパーティをするので、ぜひ日本の人達も連れて来て欲しい。夕食も出します”と呼びかけていて、この言葉を聞いた時“スゴイ人だなあ、こんなに沢山の人を自分の家へ呼ぶなんて‥‥‥私も家に着いたらすぐにお料理を作るお手伝いをしなくては‥‥‥etc.”思っていました。そして、外へ出て迎えに来ていた自動車を見ると、何とドイツ製の新車“BMW”!!
うわ〜この人は何者?と思い、車の中で “家族は何人?” “息子2人で1人は結婚していて1才のBéBéがいる、次男は大学生、妻とは離婚した、家には女中(メイド)が2人いて、それ以外はいない”とのこと。(私は久し振りに“女中”という日本語を聞いてびっくりした)
“お仕事は?” “23年前に作った会社で、従業員が約2000人、布地を作っていて、3交代で働いている工場” とのこと。あ〜そ〜!!私のお父さんはこんなに大きな会社の社長さんだったのだ!!だから、あんなに沢山の人を招待できるんだな、と納得した。
そして車の中から、全くソノ子の様な状態で“家はどこかな?(ディマナ ルマーヤ?)”と思って見ていると、車がスーッと会社の門の中へ入って行って止まった。すると、すぐにパパに“アッ、わかさん。向こうから日本人の夫妻がくるので、ちょっと紹介しておきたいから”と言われて、私もすぐに車から下り、その夫妻に“こんにちは!!ついさっき、このスラマトさんの家にホームステイに入ることになって‥‥‥昨日ジャカルタに着いたばかりなんですけど‥‥‥この方はここの会社の社長さんだったんですね!!”と挨拶したところ、即座に“ボクが社長です!!”という返事がかえってきて、 “エッ!?そうだったんですか!!すみません、よろしくお願いしまーす!!” と深々と頭を下げている自分がいました。
一体、どうなっているんだろう?といろいろきいている内に解ったことは、“ユニテックス”という会社で23年前にユニチカと丸紅が一緒に作った合併会社で、社長以下8名は日本人であとの従業員は全員インドネシア人。私のホストのパパのスラマトさんは、この会社の設立の前年、24年前からかかわって作ってきた人で、インドネシア人の中では一番エライ人だったのです。
あ〜なるほど‥‥‥パパがボクの会社、ボクの会社と言っているのは当然で、この社長さんは1年前に日本から赴任してきたばかりだったのです。
でも、“ボクが社長です!!”と言われた時、私とパパは一緒になって一瞬背が低くなってしまったような気がしたのです。
そして、その日の夜はパーティ。それは、ユニテックス主催で、2000人の人が入る体育館で独立50周年記念の祭典が盛大に行われたのです。私の家は会社の中の社宅で、前庭にその体育館があり、この日の夕方からボゴール中のサテー屋さん(ヤキトリ屋さん)が集まり、煙といい匂いをプンプンさせながら、皆の夕食の用意をしていました。
そして夜7時すぎからお祝いの式典が始まり、皆大変な盛装で集まってきて、まず式の最初にスラマトパパが戦没者に対する感謝のお祈りをして、次に社長さんが紙を見ながらインドネシア語で挨拶をされ、次々と歌や踊り、クジ引きゲーム等のプログラムが進行してゆきました。
その間、ついこの2〜3時間前にホームステイに入ったばかりのヒッポのメンバー達がその家族に連れられて続々と参加してきました。でも、その顔と姿を見た時、私はアッケにとられてしまったのです。みんなまるで、これは日本人とは思えない様にきれいにお化粧をしたり、民族衣装に身をつつんで(まるで花嫁さんか花ムコさんの様!!)なんだか嬉しそうにペチャクチャ家族とおしゃべりしているではありませんか!!この光景を見た時、本当に心から凄い!!と思って感動しました。何しろ、数時間前までは家族の名前も何も知らない人達同志だったのですから‥‥‥。
そして、フッと横を見ると、社長夫人がまるでコケシ人形のように身動きもせず黙って坐っておられたり、日本からのユニテックスのエライ人達が高い席に坐ってしっかり気をつかいながら頑張っておられる姿に会い、この異いは何だろう?!と思ったのです。
確かに、私達ヒッポの交流というのは、まず最初からガーンと“腹わた”の中へ入りこんでしまうのだという実感!!これはとりもなおさず“ことばを外側から見るのではなく、内側から見つけてゆくのだ”ということを目で見てしまった気がしたのです。そして、私“コケシ人形”の人生でなくて良かった!!もしヒッポに出会っていなかったら‥‥‥きっとアチラの席に坐っていたにちがいないと思うのです。(昔、私の主人は三菱電機の海外事業部にいたことがあるので)
倖せな気分で、夜、家に帰ってみると、大学生の息子のビンビンが笑顔で“スラマ マラン!!”と快活に話しかけてくれ、メイドのミラーちゃんが“チャッペー?”(疲れた?) “アパアパ マッカン?”(何か食べる?)とやさしい声で言いながら、“チャー”といってお茶を持ってきてくれる‥‥‥ホントに家族!!‥‥‥
写真:わかちゃんの家で行われた盛大なパーティ。これは体育館の客席ですが、舞台では華やかな民族衣装に身を包んだ人達が歌ったり踊ったりしていました。前列向かって右から4人目がわかちゃん、その左がホストのスラマトさん。ちなみに、一番右はつくばのモリタンで隣はホストです。(photo by コキリ)
−ホームステイの始まり−
朝まだ暗い頃(午前4時半頃)大きな音のコーランで目が覚める。すると、コーランにあわせた様に鶏がハッキリとした声で“コケコッコー!!”と何度も鳴く。そして暫くすると隣の部屋で、手桶に水を汲んで“パシャ!パシャ!”と身体にかけているマンディの音が聴こえてくる。そして、今日が始まるよーという空気の流れが動きはじめる。
95%の人がイスラム教のインドネシアでは5回のお祈りの時間がある(暁、正午、午後3時頃、日没、夜8時頃)我が家もイスラム教なのでパパもビンビンもちゃんとお祈りをする。
いったん目が覚めるけど、私は又眠って朝7時半〜8時頃に自分の部屋から出ていくと、既にパパは会社、ビンビンは大学へ行っていて、ミラーちゃんだけがニコニコしながら“スラマ パギ!!”と言ってタロイモのふかしたのとか、バナナの揚げた朝食を用意してくれ、“パパ パギ パギ ブックルジャ カントール”(パパは朝早くから会社なのよ) “プラン ジャム ドゥアプラス”(12時に帰るからね)と、やさしく何度も言ってくれる。最初はボヤーとしか解らないけど、何度も言ってくれるので、段々細かい所まで解ってくる。そして、私が何か言うと、“ワカチャン バハサ インドネシア ピンタール!!”と言って“バグースャ!!”とほめてくれる。そのうち、ユニテックスへ3交代で働きに行く人達が我が家に立ち寄って少し私と話をしたり、折り紙をしたり、漢字トランプで遊んだり‥‥‥
皆がいなくなると、TVをつける、すると相変わらず“デリガハユー・・・・・・インドネシア!!”と叫んでいる番組ばかりで、時々ドラマをしているので見ていると、男と女の行きちがいの話のようで、“クナパカ?!”という音がヤケに耳につく感じがする。そして、パパも時々会社の仕事の合間を縫って様子を見に家に帰ってきてくれるのが嬉しい。でもすぐに会社に戻る。
〜そう、ホームステイというのは結構ヒマなのです〜
外へ散歩に出たついでに、社長さんの家に行ってみようと思った。我が家の社宅と近いし、突然変な日本人がホームステイにとびこんできて、きっと不思議に思っていらっしゃるにちがいないので、アルバムとヒッポのパンフレットと、つい最近記事になった毎日新聞の榊原さんの記事のコピーを持って出かけた。
ご主人は会社だったけれど、奥様1人で心よく家の中へ招き入れて下さり、大阪の高槻に住んでいて、今までヒッポのことはきいたことがなかった、とか、1年間ここに住んでいるけれど、もう主人だけ残して自分は日本へ帰りたい(息子が結婚するのでetc.‥‥‥)・・・・ところで、スラマトさんのこと、ご存じですか?とたづねると、すぐ近くに住んでいても何も知らないとのこと(奥さんと離婚されたイキサツは日本人からきいてウンヌン‥‥‥)なる程、企業(社長夫人)というワク、日本人というワクの中で生きているわけだから、そう簡単に、自由に“自分”を出すわけにはいかないのです。
改めて、ヒッポで“赤ちゃんのようにことばと人間に出会っていく”ということ、“ことばを内側からみつけてゆく”ということ、ヒッポは何をしようとしているのか、どういう環境を作ろうとしているのか−−−ということを考えさせられたのです。
(続く)
次に進む
前に戻る
’95夏インドネシア交流体験記の目次に戻る
このホームページの目次に戻る