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 身延に入山された日興上人は、身延山の別当としての役割を果たしつつ、後輩の育成、教義の研鑽などにいそしんでいたものと思われますが、ではその外の本弟子たちはどうしていたのでしょうか?

じつは、大聖人の入滅後に墓所の「輪番制」が設けられました。これは、毎月それぞれ高位の弟子が担当となって身延に登山し、大聖人の御廟所をお守りするという制度で、一応の目的は大聖人の廟所の守りでしたが、その本当の目的は弟子達の絆を深める意図があったと想像されます。

「輪番制」は「御遷化記録」のうらに誓状がかかれ、日昭、日朗、日興、日持が署名しています。というのも御遷化当時、6人の本弟子のうち門下の指導者の証である「阿闍梨」号を持っていたのは4名だったからです。

しかし、「輪番制」は守られることがなかったようです。大聖人の百箇日法要後、下山してからは誰一人、身延へは登山せず、日興上人とその門下が墓をお守りしていたようです。その時のありさまが、弘安7年に日興上人が門下である美作房日保にあてられたお手紙に細かく記されてあります。