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 日興上人は、決して軽々しく「身延」を「離山」したのではありません。「原殿」(日興上人が信頼を寄せていた信徒で南部家の一族の者。波木井の北方に「原」と呼ばれる土地があってそこに住んでいたために「原殿」と呼ばれていた。一説によれば、実長の嫡男・清長であるとの説もある。)に対する手紙によれば、「身延離山」に至る経緯の中で日興上人は、かなり熟慮を重ねていたことが推測されるのです。