『ファンタジウム!』

作 山下泰昌

第五話 ファンタジウム初練習


 雲一つ無い青空だった。
 風は涼しい中にも、ほの暖かい空気を孕んで幾度も俺の頬を撫でる。
 比較的郊外で、しかも端々には昔の雑木林のなごりのようなものが残っているここ、麗鳴高校のグランドにはヒバリの声なんてのも聞こえてくる。
 のどかだなあ。
 芝生の上で軽くストレッチを行いながら思わずそんな感慨に耽ってしまった。
 俺の右隣ではただの柔軟体操だっていうのに、苦しそうなうめき声を上げながら身体を曲げている三田村、そして左隣には右足を庇いながら、でも慣れた感じでストレッチを行う桜庭先輩が居た。
 桜庭浩一。それがあの狼のように飢えた目つきで、右足を引きずっていた先輩の名前だった。
 学年は二年。だけど一年の三学期に急に転校して来たという話だった。なぜ、転校して来たのか。なぜ右足を怪我しているのかは知らなかった。本人にも訊けるわけはなかった。
 俺達は麗鳴高校指定の桜色のジャージを身に纏い、木刀を持ってグランドに集まっていた。
 今日は麗鳴高校ファンタジウム部の初練習日だ。
 結局、俺はこの部活に入った。あの赤いリボンの少女との繋がりを持ちたい、というのが元々の第一義だったが、あの時この桜庭という先輩に出逢って、この人物に興味が湧いたのが本当の入部の理由である。
 桜庭という人の強さを直感した。だからこの人と実際に剣を交えてみたい。怪我から復帰したその姿を見てみたいと思ったのだ。
 「ごめん、ごめーん。遅れちゃったねー。待ったー?」
 校舎の方から妙に可愛らしい声が近づいてきた。その声の方に顔を向けると、中学生かと見紛うばかりの少女が近づいてくる。俺も最初会った時は驚いたが、実はこれが当ファンタジウム研究会顧問の朝比奈のぞみ(あさひな のぞみ)だ。
 噂によるとこれで三十歳ちょい過ぎだというが、本当のところは知らない。だって、本人が「女性に年齢を訊くもんじゃないのよ」と言って答えてくれないんだ。
 ツーテールに結ったその髪型がその子供っぽさを増長させている。
 先公は俺達の前に立つと三人しかいないことに気が付き、頬を膨らませる。
 「あれー? 木俣君と、神崎さんはぁ?」
 「帰っちゃいました」
 と答えたのは三田村。木俣と神崎ってのは、あの新入生勧誘会の時に居たぼさぼさ頭と不気味女の事だ。木俣ってのが部長で、三年。神崎は二年だそうだ。
 「もう、二人ともしょうがないなあ。今度良く言っとかないと! ぷんぷん!」
 先公はそう言って腰に手をやり、眉根に皺を寄せる。
 だからそう言った言動が子供っぽく見せるんだって。俺はため息を吐く。
 だが、先公はそんな俺の気持ちも知らずに、桜庭さんに顔を向けた。
 「桜庭君、どう? リハビリは順調?」
 「はい」
 桜庭さんは嬉しそうに頷いた。そうだ。このガキ先公と話す時は、いつも険のある桜庭さんの顔が、ほころんでやさしくなる。なんだろう。何かあるんだろうか、この先公と先輩の間には?
 「この前、秋山先生に診察してもらったら、この調子なら近い内にギブスが取れるんじゃないかって」
 「ほんと! 良かったね! じゃあ、今から本格的な練習メニューを考えとかなくちゃね!」
 桜庭さんは本当に嬉しそうな顔をした。だが、すぐに俺の視線に気が付き、いつもの厳しい表情に戻す。だがその端々には――目尻とか、口元とか――喜びの痕跡が見え隠れしていた。
 「ようし! じゃあ桜庭君はいつも通りのリハビリメニューね! はい、じゃあ新入部員の三田村君と中山君はこっち」
 俺と三田村は戸惑いながらも、招かれるまま先公に近づく。そしてその前で整列する。
 「二人はファンタジウムは初めてなんだってね? それじゃあ、これ持ってくれる?」
 先公はそう言って俺達に水の入った円盤のようなものを差し出した。その円盤を覗き込むと周囲にいろいろアルファベットで書き込みがある。よくよく見ると中に入っているのは、水では無く何か青い色の付いたゼリーのようなものだった。
 「さ、このウイジャ盤持ってその中心に意識を集中して!」
 俺は激しく戸惑いながらも言われたことを実行に移す。対する三田村は喜々としてウイジャ盤と呼ばれた円盤を覗き込んでいる。一応、それが何か分かっているみたいだ。ま、ファンタジウムマニアだからそれは当たり前か。
 おっと、中心に意識を集中するんだっけ。ええと、中心、中心。中心……。
 意識を集中し始めて三十秒も経っただろうか。ウイジャ盤に変化が現れ始めた。青い色のついたものがまるで磁石に引かれる砂鉄のように次第に左の方に動いて行ったのだ。時計で言うとだいたい十時の方向に。
 「ふうん、中山君は風属性ね。ちょっと火寄りかな?」
 先公が俺のウイジャ盤を覗き込みながら言った。俺は聞き慣れない言葉を訊いて、眉を顰める。
 「属性?」
 「そう、属性。属性ってのは言ってみれば魔法に対する相性みたいなものよ。魔法術師だとこの相性ってヤツがもの凄い重要になって来るの。例えば火炎属性と水属性の攻撃魔法術師がいるとするよ。すると、基本的に火炎属性は水属性に圧倒的に弱いのね。ま、もちろん術者の技量の違いってのはあるけどね」
 「すると俺はこの対角線上の土属性に弱いってわけですか?」
 ウイジャ盤の三時の方向に書いてあるearthという文字を読んだ。先公は手をポンと叩き、俺を嬉しそうに指差す。
 「ザッツ、ライト! そう、その通り。もう中山君、物わかりがいいなあ! でも安心して。現代ファンタジウムでは土属性の攻撃魔法術師っていないの。だってそうでしょ。屋内で行うファンタジウムが大半だし、それに大規模破壊を起こす危険性のある土系魔法のほとんどは禁呪なの」
 ……うーん。なんか次々と専門用語が飛び出すんでなかなか付いていけないけど、まあ、なんとなくは分かった。とりあえずこれで確かになったことは、俺はファンタジウムでは風属性という部類に分類されるってことだ。だからもし俺が魔法術師になるとすると風系魔法術師ってことになるのだろう。
 「ええと、僕も風系みたいですね。……でもちょっと水寄りみたいだ」
 三田村が俺の分析結果を参考にして呟いた。三田村のウイジャ盤は時計で言うと八時の方向に青い液体が集まっている。
 「そうだね。水寄りの風は攻撃魔法術師になるのなら面白いなあ。上手く行けば氷系の魔法も使えるようになるから。で、ところで」
 先公はそう言って俺達の手からウイジャ盤を取り上げると、急に厳しい顔つきになった。
 「今、調べた君たちの属性だけど、絶対チームメイト以外の人間に洩らしては駄目よ」
 「え?」
 俺と三田村は同時に声を挙げた。どういうこと?
 「試合に出続ければいずれ知られることになるけど、属性情報は出来るだけ他チームには知られない方が良いの。どういうことか分かる?」
 「ええと、つまり対戦相手に対抗策を取られることになるからですか?」
 三田村が恐る恐る発言する。
 「その通り! プロファンタジウムでは常識のことだけど、相手に火炎属性の選手が居れば、こちらは水属性の選手を揃えるの。これは少しでも勝利の可能性を増やすためよ。だからファンタジウムではこんな言葉があるんだ。『ファンタジウムは情報戦』ってね」
 なるほど。ちょっとこのガキ先公を見直した。さすがに『先生』と言うだけはある。言っていることが分かりやすいし、それに詳しい。
 「先生はファンタジウムの選手だったの?」
 俺は心にふと浮かんだ疑問を口にした。ファンタジウム部の顧問に付いているからあたりまえだとは思うけど、これだけファンタジウムに造詣が深いということは、やはり経験者だったのに違いない。それもかなりなハイレベルな経験者だと。
 俺のその言葉にしばらく虚を突かれたような表情の先公だったが、すぐににこりと笑い、「そうよ。これでもプロだったのよ、一応」と胸を張った。
 やっぱり。
 俺は心の中で頷く。
 「え! 嘘! どこのチームだったんですか!」
 ミーハーな三田村がすぐそれに食いつく。だが先公は首を横に振った。
 「教えません。だって恥ずかしいもん」
 はにかみ気味に俯いてしばらく何かを思い出すような表情をしていたが、やがて気を取り直すように顔を上げた。再び厳しい顔つきになる。
 「では、今ウイジャ盤で分かった結果を基にあなた達のロールを決めます。これは希望が最優先。その後にそのロールが本当にあなた達に向いているかどうか考えて行きましょう」
 ……また専門用語が現れた。必然的に俺は質問することになる。
 「あのさ。『ロール』って何?」
 先公はそんな俺の質問にバカにするでもなく優しく頷く。
 「うん。『ロール』ってのはね、日本語に訳すると『役割』。ファンタジウムにはその人その人でいろいろな役割があるの。他のスポーツでもそうよね。野球だとピッチャーとかキャッチャーだとか、サッカーだとフォワードとかゴールキーパーとかってあるでしょ? あれと同じ。ファンタジウムでは大別して『物理的攻撃術師』『攻撃魔法術師』『防御魔法術師』の三つに分かれます。物理的攻撃術師は何か凄い難しそうに言っているけど、これはなんてことはないわ。剣や棒などで攻撃を担当する人間のことね。弓術師なんかもこれに当たるわ」
 なるほど。じゃあ、俺はこれか。
 「攻撃魔法術師はその名の通り、敵に対してダメージを与える魔法を行使出来る人間のことね。これはファンタジウムでは最も派手なロールだからいくらファンタジウムのことを知らないって言ってもどこかで聞いたことがあるでしょう?」
 先公の問いかけに頷く。
 ――あの夜、あの娘が見せた炎の魔法。あれがつまり攻撃魔法。そして火炎属性の攻撃魔法ってわけだ。
 「防御魔法術師。実はこれには二種類あって『物理的防御魔法術師』と『魔法防御魔法術師』とに分かれるのね。ややこしいから良く聞いててね。物理的防御魔法術師は、剣とか棒などの打撃に対する防御魔法を展開することの出来る魔法術師のことね。で、もう一つの魔法防御魔法術師ってのは相手の攻撃魔法に対する防御魔法を展開することの出来る魔法術師のこと。まあ両方とも地味なロールだけれど、ファンタジウムのチーム作りには無くては成らないロールね」
 「あれ? 『回復魔法術師』ってロールは無いんですか?」
 三田村は疑問を投げ掛ける。マニアの三田村がそう言うからにはファンタジウムにはきっと回復魔法という魔法もあるのだろう。俺は答えを待って先公に目を向ける。
 「回復魔法はね、能力の大なり小なりはあれど、ファンタジウムの選手には必ず覚えて貰う魔法の一つなのね。柔道で言う『受け身』みたいなものかしら。だから選手の全てが使えるので、それ専門の選手というのはいません。いかがかしら? 他に何か質問は?」
 三田村は首を横に振った。俺は他にも分からないことだらけだが、聞き出すとキリがないので、この辺にしておく。とりあえず、ロールのことは分かった。
 俺は目でそれを先公に合図する。
 「よろしい。それではあなた達のロールを決めましょう。まず、三田村君。あなたはどんなロールをやってみたい?」
 「僕ですか……」
 三田村は首を捻って、うんうん唸りを上げた。しばらくして絞り出すように声を上げる。
 「ええと、まず剣を使うような物理的攻撃は性格的に無理だと思います。あまり攻撃的な性格じゃないので。性格的には防御魔法は合っている気がします。でも……」
 「でも?」
 「僕はファンタジウムでは攻撃魔法術師が好きなんです。あの御園選手みたいに多彩な技を繰り出す攻撃魔法術師が好きなんです。だから攻撃魔法はやってみたいと思うんですけど……でも無理ですよね?」
 「なんで?」
 「なんで? って……だって、僕みたいな気の弱い気性の人間じゃあ、『攻撃』なんて……」
 「始める前から無理、だなんて思っちゃ駄目よ、三田村君。無理と思ったらそこでゲームセット。やってみようと思うことで人間って可能性が生まれてくるのよ。……そう! 例えば三田村君が好きなその御園選手。彼女だって初めは気が弱かったのよ」
 「え? そうなんですか?」
 「そう。彼女は初めは凄ーい気が弱かったのよ。でもファンタジウムをやっていく内にその魅力に取り付かれて楽しくなっていって、それであの日本代表になるくらいまでに行ったのよ。だから三田村君もやる前から諦めちゃ駄目。よし、じゃあ三田村君は攻撃魔法術師で行きましょう! それで余裕があれば防御魔法も覚えて行くってことで」
 「はい!」
 「で、次はあなたね。中山君」
 先公はそう言って俺の瞳をじっと見た。
 改めて向き合うと深い湖のような瞳だった。思わず飲み込まれそうなくらいに。そこでようやく先公がそれなりの経験を積んだ人間だと認識する。やっぱり人間は外見で判断しちゃいけないってことか。
 「……あなたは何をやりたい?」
 「え?」
 どきりとする。
 自分はもう剣を振るだけだと思っていた。それこそ物心付く前から木刀を握っているから。自分にはこれしか無いものだと思っていた。だから今更自分に新たな選択肢が求められようとは思ってもいなかった。
 魔法――。ファンタジウム、この競技だけで使われる特殊技能。俺はついこの前、この技能を目の当たりにした。
 赤いリボンのあの少女が繰り出す、炎の魔法を。
 俺も練習すればあんなことが出来るようになるのだろうか? 剣だけが取り柄だと思っていたこの俺もあんな無から有を作り出す技術を取得することが出来るんだろうか。
 「……剣でいいっす」
 「そう?」
 莫迦か、俺は。三田村のことを言えない。
 「でも」
 「ん?」
 「攻撃魔法、ってヤツもやってみたいんだけど……いいかな?」
 すると先公は満面に笑みを浮かべて、頷いた。
 「いいじゃん。 やってみましょ?」
 否定、躊躇。そんなものが全くない笑顔だった。
 俺は思わずそれにつられて微笑んだ。

 すでに陽は翳っていた。
 夕陽がオレンジ色に辺りを照らし出す中、俺と三田村と桜庭さんは学生服に着替え、帰宅の途についていた。
 あの後、桜庭さんがリハビリメニューを行っている間、俺と三田村はみっちり二時間以上、ランニングやら筋力トレーニングやらの基礎トレーニングを行った。ファンタジウムの練習と言ってもやっぱりこういう基礎トレはやるんだな。
 俺は普段から身体を動かしているから特になんてこともなかったけど、スポーツ素人の三田村は大変だった。ランニングの時はゲロ吐きまくりだし、今だって歩くのがやっとのへろへろ状態。こりゃ、明日は筋肉痛で大変なんだろうな、と人事のように思った。あ、人事だもんな。
 学校から最寄りの駅の途中にはコンビニが一件ある。
 そのぼやっと灯る看板のロゴを見ているウチに腹が鳴った。
 しょうがない。食べ盛りの男子高校生だ。昼喰った弁当なんぞは、放課後までに消化されてとっくの昔にエネルギーに変換されている。
 「何か喰っていきませんか?」
 俺の誘いに桜庭さんも即座に乗った。ストイックそうな桜庭さんだから食べ物にも気を付けていそうだな、と思ったがそこはやはり現役男子高校生だった。「何喰うかな?」と嬉しそうに呟く。
 「よ、良かった」
 と息も絶え絶えに呟くのは三田村だった。壊れた人形みたいに歩いていた三田村は、休憩スポットが現れたことでほっと息を吐く。結局、俺達は全一致でコンビニに入ることになった。
 と、その時。
 コンビニに入ろうとした俺の目の端に違和感あるものが目に入った。
 コンビニの前にたむろしている四人の集団。アスファルトに直に座り、バカ騒ぎしている四人組。年の頃は俺達と同じくらい。だが四人が四人とも同じ色調の服を身に纏っている。その服に書かれている文字――
 ――葛『KAZURA』。
 一瞬にしてあのヘビのような目つきのの小男が思い出される。あの俺の木刀での一撃を素手で防いだあの小男を。
 「どうした?」
 入り口で立ち止まり、なかなか中に入ってこない俺を見て不審に思った桜庭さんが声を掛けた。そして俺の視線の先に顔を向ける。怪訝な顔でしばらくその四人の様子を眺めていた桜庭さんだったが、しばらくして目を細めて何かを読みとった辺りから態度が激変した。
 「あいつら!」
 桜庭さんがいきなり声を荒らげる。桜庭さんが占有している領域の温度が一気に沸騰した。そんな感じを受けるほど、桜庭さんは急に感情をむき出しにした。
 「ど、どうしたんですか?」
 俺は今にも飛びかからんばかりの桜庭さんの身体を押さえながら、思わず訊く。
 そんな桜庭さんの様子に『葛』の一人が気が付いた。そしてポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと俺達に近づいてくる。三田村は怯えて俺と桜庭さんの後ろに隠れた。
 「おい、なんか用かよ?」
 あちゃあ。
 言葉は穏やかだがあきらかに敵対意識を持って話し掛けていた。当然のことながら桜庭さんと睨み合う格好になる。俺はなんとかその間に挟まって桜庭さんを押さえる。桜庭さんは引く様子を見せない。そしてこいつも決して引きはしないだろう。
 やべえなあ。なんか麗鳴に入学するって決まってからこんな乱闘騒ぎばっかりだ。何だろう。俺と麗鳴って相性が悪いんだろうか。風水的な問題かな。
 そんなたわいもないことを考えている内に状況は更に悪い方向へと動いていく。いつのまにか『葛』の残りの三人も俺達を取り囲んでいた。三田村は隠れるところがなくなったので、俺の身体にぎゅっとしがみつく。
 こら、やめろ、気持ち悪い。っていうか、そんなにしがみつかれたらいざと言うときに動けない。
 そろそろ桜庭さんも力で押さえきれなくなってきた。覚悟を決めた方がいいのかも知れない。
 俺は冷静に戦況分析を始めた。
 闘うとすると四対三。いや、三田村は戦力になるはずもないから、四対二か。
 俺は桜庭さんを押さえながらも、素早く『葛』の四人に目を走らせて、その実力を値踏みする。
 ――四人ともそこそこやりそうだ。だけど、実力が読めないくらいの桁外れなヤツはいないようだ。少なくともこの前の小男ほどのヤツは。といっても桜庭さんはそれ相応の実力は持っているだろうけど、右足の怪我が不安だ。あまりあてにしない方がいい。
 ということは、頼れるのは自分だけってことになる。
 俺は桜庭さんを止めることを放棄し、肩から掛けているレザーの竹刀袋の留め金を外した。これでいつでも木刀を抜き取れる態勢だ。
 「中山」
 すぐにでも連中に飛びかかると思われた桜庭さんだったが、そんな俺の態度の変化がわずかながらにストッパーになったようだ。ヤツらからある程度の距離を置き、俺の動向を見守っている。
 その時、『葛』の一人が声を挙げた。
 「ん? お前、あの時の」
 そいつは俺の顔をしばらく観察したかと思うと、そう呟いた。
 俺はそいつの顔をしげしげと見る。
 ……よくよく見ると見覚えがあるような気がする。そう、あの時、赤いリボンの少女に一番最初にのされた男だった。
 「てめえ、麗鳴だったのかよ」
 そいつはそう言ってから、桜庭さんを見、三田村を見て眉間に皺を寄せる。
 「あの火炎魔法の女はどこだ?」
 だが、当然のことながら、そんなことは知る由もない。というか、こっちが訊きたいくらいだ。
 俺は丁寧に返答することにする。
 「知るか、バカ」
 急激に場の空気が沸騰した。『葛』の連中は怒りを露わにする。一発触発。
 だが、その感情の変化は攻撃への遅れを促すだけだ。正直、その瞬間的な怒り、憤りといったものは、俺に対して隙を作っただけに過ぎない。まさしく好機。
 即座に、たったの一動作で竹刀袋から木刀を抜き取った俺は、正面の男の顔面に木刀を叩き下ろした――
 ――いや、嘘だ。
 木刀はそいつの顔面、わずか五ミリ手前でぴたりと止まっている。いくら俺でも防具やFスーツを着けていないヤツにそこまではしない。そもそも、そこまで俺が本気にならなければいけないほど、こいつらと実力が伯仲しているわけでもない。
 事実、今こいつは眼前に音もなく振り下ろされた木刀に、何も出来ず、目を極限まで見開いて脂汗を垂らして震えていた。
 ズボンを脱がせばパンツなんか小便で濡れているんじゃないか? たぶん。
 残りの三人もその実力差に気が付いてくれたようだ。怖じ気づいたように数歩ずつ後退する。
 俺はその様子を確認しながら余裕を持って木刀を竹刀袋に納める。
 そしてゆっくりとその留め金を止めた。ぱちり、と。
 「さ、何か喰いましょう、桜庭さん」
 「あ、ああ」
 桜庭さんは毒気が抜かれたように俺に促されるままコンビニの店内に入る。
 「ちょ、ちょっと待ってよ! 置いてかないでよ!」
 しばらく硬直状態だった三田村は、ようやく我に返ったようだ。ワンテンポ遅れて後を追ってくる。
 表にいる『葛』の連中は怯えたようにどこかに去って行った。こういうのは最初が肝心、動物と同じだ。初めに強気に出ておかないと、後々なめられることになる。
 だけど……。
 『葛』を見た時の桜庭さんのあの態度。あれは一体なんだったんだろう?
 桜庭さんは、ヤツらが消え去った方をいつまでも凝視している。
 さっきに比べると落ち着いている。だがその瞳は暗く、闇のようだった。
 とても事情を訊ける雰囲気じゃない。
 一体、桜庭さんと『葛』のヤツらとの間に何があったんだろう。
 辺りはいつの間にかとっぷりと暮れていた。

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