第 3回は好天気に恵まれ、保土ヶ谷へ向かう途中の湾岸高速からは、くっきりと富士山を望むことができた。最初に訪ねたのが「御代所(政子)の井戸」。北条政子がこの井戸の水を汲んで化粧に使ったと伝えられる。「金沢横町の道標」と「保土ヶ谷宿本陣跡」を回って権太坂へ。新春の箱根駅伝で知られる坂だ。急な坂道を登り終わったところから西側の崖下をのぞいたら、新興住宅地の向こう側に富士山が浮かんでいた。

切り開かれた新興住宅地の向こうに富士山が


 権太坂をさらに進むと「投げ込み塚の跡」の碑。東海道の難所で行き倒れになった人をここに投げ込んだそうな。横浜ゆかりの文人の墓がある「見光寺」、そして「旧東海道」の碑がある「焼餅坂」。ここはしばらく前まで鬱蒼とした切通だったが、今は宅地造成の工事が進む。

焼餅坂の宅地造成工事


 日本橋から9番目の「品濃一里塚」が小高い丘の上にある。一里塚は「駄賃」を決めるために約4kmごとに作った5間(約9m)四方の塚で、上には松やエノキが植えられていたという。神奈川県指定の天然記念物「増田家のモチノキ」は、樹高18mに達する巨木で、旧東海道に面して行き交う人々を見つめてきた。東海道見附跡(江戸方見附)の碑を見て、清源院へ。ここは京都の総本山知恩院の末寺で、南向山長林寺と称し、徳川家康の側女・お万の方によって、元和6年(1620)に開基されたという。 冨塚八幡宮には七五三のお参りでにぎわっていた。

冨塚八幡宮の石段は袴で降りるのは大変


 待望の昼食は田谷の「九つ井」(ここのついど)で、敷地を民芸調の雰囲気で統一していて美しい。出てきたそば懐石も美味しかった。

「九つ井」の入り口

駐車場側から見た「九つ井」の屋根と柿木


 「九つ井」のすぐ横にあるのが「田谷の洞窟。定泉寺の境内にあり、真言密教の道場だった人口「地底伽藍」となっている。ろうそくを手にして頭のつかえそうな低い洞窟の中に入っていくと、壁面に無数の石仏が刻まれている。右へ、左へと折れ曲がり、上へ向かったと思うと下へ降りていく。真っ暗になってしまったら迷路に入り込むことは必定と思える。
 「白旗神社」から「永勝寺」の「飯盛女の墓」へと回る。藤沢宿には49軒の旅籠があり、その内の27軒に二人ずつ<飯盛女>がいたという。


飯盛り女】 江戸時代、宿駅の旅宿におかれた非公認の遊女。宿泊客への給仕もした。
 

 旧東海道に面して古い蔵屋敷の作りの建物が散見される。写真の建物には<紙>と書かれた看板が見られる。これだけを撮っていても面白い。

旧東海道に面した蔵屋敷


 時宗総本山「遊行寺」の宝物館を見たあと「大山道」の鳥居へ。冬の短い陽は落ちて、東の空に下弦の月が浮かんでいた。


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