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 まず、前回行けなかった残りの岡部宿、岡部一族のお墓に詣でたあと、須賀神社のクスの木を訪れる。樹齢500年、根回り15.2メートルとのことだが、写真ではその大きさがなかなか表現できない。幹の中は空洞になっていて、ちょっとした部屋のようだ。静岡県神社庁の「御神木」認定証が飾ってあった。

須賀神社のクス


 藤枝成田山、左車神社と回って、田中城跡に行く。田中城は、戦国時代に甲斐武田氏によって原型が築かれたと言う。現在は明治5年に開かれた西益津小学校になっていて、その庭にミニチュアが作られていた。

田中城のミニチュア


  圓妙寺久遠の松を見て、次は藤枝市天然記念物の本願の松、別名延命の松に寄る。さすが天然記念物と言うだけあって、うね曲がった太い幹は「ヤマタノオロチ」を連想させる。松の幹がうろこのように見えてくる。田中城主土岐丹後守頼稔が植えたと伝えられる。なぜか今回は「御神木」の類が多かった。

本願の松


 大井神社では若い宮司が網で池のゴミ取りをしていた。次に「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」である。町並みが保存され、記念館もある。川を渡らせてもらうために川越人足を雇うには、人足1人につき「川札」1枚を買わなければならない。この値段ががその日の水かさに連動し、5段階に分かれている。一番安いのが「股通(またどおし)」の48文(1,440円)、これが「脇通(わきどおし)」だと94文(2,820円)に跳ね上がる。そしてこれ以上水かさが増したら「川留め」である。
 渡り方は、一番安いのが肩車、蓮台もピンきりで「平蓮台」から「大高欄蓮台」まで5段階がある。安い肩車でも「手張り」と呼ばれる補助者が付くので川札2枚、「平蓮台」で6枚、「大高欄蓮台」だと52枚が必要になる。掛け算をしてみるといかに高かったがよく分かる。幕末の川越人足は、650人を数えたと言う。

大井川川越(かわごし)遺跡


  明治維新とともに川越制度はなくなり、失職した川越人足たちは、谷口原、牧之原の開拓事業に加わった。しかし、島田の町から谷口原へ渡るには大回りをせざるを得なかった。このため、開墾人総代清水永蔵らが中心となって資金を集め、明治12年1月にこの橋が完成した。全長897.4m、通行幅2.7mで世界最長の木造歩道橋としてギネスブックに登録されている。大井川の出水で何度も落橋破損を繰り返している。

  詳しくは 遊び場107 蓬莱橋/大井川 をご覧ください

蓬莱橋


 蓬莱橋を渡って丘に登ったところが牧之原台地。一面が茶畑になっていて、一番茶を摘んだあとの消毒作業を行っていた。きれいに刈り揃えられた茶畑は美しいが、途中に見た畑の土は、大小の石が混じり、開墾の困難さがうかがわれた。入植したのは、明治維新で静岡入りした徳川慶喜・家達の家臣団で、勝海舟や山岡鉄舟が奔走した。士族330戸が入植したが、この隊長が中條景昭で、大井川を望む小高いところに像が建立されている。 

詳しくは 牧之原大茶園開拓の歴史 をご覧ください

牧之原台地の茶畑


 東海道の石畳も残っている(復元された)石畳は、箱根とこの「金谷坂」だけだという。30mほどしか残っていなかった石畳を、平成3年に町民約300名が参加して430mが復元された。これを上っていくと日坂宿へとつながっている。

金谷坂の石畳


 日坂に下りると高架になったバイパス道路、広重の「日坂宿」の図が掲示されていた。道路工事で移設された江戸時代の面影を残す旅籠「川坂屋」、「事任八幡宮」を見て本日は終了。
 夕食は掛川城そばの割烹旅館「月茂登」。美人の若女将と新人の仲居さん。料理・地酒とも美味しかったが、美人の揃い踏みも格別。残念なことにカメラをバスへ置いてきてしまった。宿泊は「掛川グランドホテル」。

家紋月茂登
 

 後編へ続く


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