後 編


 掛川城へ向かう途中に「大日本報徳社」がある。ここは、二宮金二郎の像で知られる二宮尊徳の「分度」・「推譲」という報徳の教えを実践し、全国に広める報徳運動の本社とのこと。その実践か、道端の水路を地元の人たちが掃除をしていた。

詳しくは 大日本報徳社

「大日本報徳社」前で掃除をする人


 掛川城は、1590年代に、豊臣秀吉の家臣であった山内一豊が城主となり、天守閣を建設、下町も整備した。天守閣は、嘉永7年(1854)の大地震で被害を受け、取り壊された。平成2年から平成5年にかけて日本初の本格木造により天守閣が復元され、平成7年6月には大手門も復元された。

詳しくは 掛川城天守閣、掛川城御殿と大手門 をご覧ください

初夏の陽気で日傘の女性たち


 秋葉総本殿 可睡齋(あきはそうほんでん かすいさい)には、95年の夏に松原泰道師が会長の「南無の会」で泊まりこんだことがある。曹洞宗に属する寺だが、秋葉総本殿ということで「火防」の神様でもある。
 「可睡齋」の名は、幼い家康とその父を戦乱の中 から救い出した11代目の住職 仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚が家康の浜松城に呼ばれた故事に由来する。家康は浜松城に親し く和尚を招いて旧恩を謝し、その席上でコクリコクリと無心にいねむりをする和尚を見て「和尚我を見ること 愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」と言って、それ以来「可睡和尚」と称せられた。後に寺号 も東陽軒から「可睡齋」と改められた。

詳しくは 秋葉総本殿 可睡齋 をご覧ください

可睡齋の山号は「萬松山」


 「可睡齋」の山内は、お寺と神社が同居している。ここは、地蔵さんと羅漢さんだが、秋葉総本殿「御真殿」には、三尺坊大権現が祀られていて、その石段の左右は、団扇を持った天狗とからす天狗が守っている。

羅漢さんをアップでご覧ください


 磐田 といえばJ1の ジュビロ磐田 でしょう。町にはチームの旗が飾られていました。

ジュビロ磐田 公式ページ

磐田の町並み


 現存する最古の洋風木造小学校校舎、旧見付学校は、大正11年(1922年)まで小学校として使用され、その後は見付中学、裁縫女学校、病院などとして使用されました。現在は教育資料館として学校関係の資料が展示されている。見学をすると昔風の机・椅子の教室で係の方が説明をしてくれる。

詳しくは 旧見付学校 をご覧ください

旧見付学校

昔の勉強風景


 2日めの最後は浜松城。古いものは何も残っていないが、城跡全体がきれいな公園になっている。入り口にあった交番もお城に合わせた作りになっていた。

城跡で語らう二人


 「東海道」も8回が終了し、残るはあと2回。残り2回は2泊3日で、一気に京都へと向かう。


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