その2


 二日目最初たずねた「豊橋市公会堂」は、レトロな風格のある建物だ。そこから豊橋公園へ抜ける途中に「豊橋ハリストス正教会」がある。大正2年に建てられたロシア正教の教会で、こじんまりとしているが美しい教会だ。

豊橋ハリストス教会


 だいたいどこへ行っても城址が公園になって、その中に学校や県庁・市役所、警察署などがある。豊橋公園も吉田城跡で、公園にはテニスコートなどが整備されている。吉田城は駿河国守今川氏の命を受け、牧野古白が永正 2年(1505)に築城した。江戸時代は藩主酒井忠次・池田輝政の居城であった。現在の城は、昭和29年豊橋博覧会時に復元されたものだ。

吉田城跡


  豊橋には路面電車が残っている。私の小さい頃の東京は、都電が何本も走り、どこへ行くにも使っていた。中学校も越境入学だったので、毎日都電を使って通学していた。まだ残っている都市はどれほどあるだろう。札幌、函館、東京は早稲田-三ノ輪だがほとんどが専用軌道、江ノ電、豊橋、広島・・・・
 豊橋の路面電車には、都電だった車両も使われていると聞いた。

豊橋の路面電車


 小坂井町の「菟足(うたり)神社」に寄って、本坂越え(姫街道)分岐点へと向かう。途中ゼミの演習で街道を歩く大学生のグループと行きかう。まじめに記録、写真を撮る子と遠足気分の子と、いろいろだ。ここから「御油宿」にはいる。名鉄の名古屋本線が旧道に沿って走っている。

御油の旧街道を歩くおばあさん


  味噌・醤油の「イチビキ」の工場が御油にあった。三河といえば「赤だし」の味噌汁。イチビキは安永元年(1772年)創業で、代々中村家の当主が社長を務める老舗だ。

イチビキの大樽


 御油の松並木を抜けて「赤坂宿」。土・日だけ営業をしている音羽町「愛輪」で昼食。先ほどすれ違ったゼミのグループ、もう一つの団体さんと重なって、狭い店内はすし詰め状態。取り急ぎ掻き込んで外へ退避。神社境内でしばし休憩。旅籠「大橋屋」は間口9間、奥行き24間の大旅籠だった。建物が音羽町指定建造物になっている。
 岡崎に入って、法蔵寺をたずねる。徳川家康が幼い頃、ここで手習い、漢籍を学んだとされ、ゆかりの品が残されている。また、裏山には新撰組近藤勇の墓があり、胸像が建っていた。

田植えの終わった田んぼ


 夕方5時前に岡崎城公園に入る。5時になると、公園に設置されたからくり時計が動き出し、家康公が能を舞う。見ていた若者グループがいっせいに携帯電話で撮影を 始めた。やはり浜松から岡崎へと、この辺りはどこへ行っても家康、家康の連続だ。

岡崎城公園のからくり時計


途中で見つけたマンホールのふた。左から「御油」 「知立」 「名古屋市内」

岡崎の泊まりは「岡崎ニューグランドホテル」、めずらしく夕食もホテル内だった。

 その3へ続く


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