1997年6月23日更新
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今日のひとこと
1997年6月25日
昨日は随分暑い一日でした。フィールドに出て、虫を見たり、写真を撮ったりしたいのですが、仕事が・・・HELP ME !!
昨日、ジャンガリアン・ハムスターのルンルンが死にました。夏日(なぴ)の手に抱かれた、安らかな最後でした。
ところで、国会でも議論されていた(?)ようですが、何をもって「死」とするかというのは、とても難しい問題です。
私自身は「脳死」を自分の死だと考えていますので、もし脳死したら、臓器提供をするつもりでいますが、それを他の人に押しつける気はまったくありません。なぜなら、移植される臓器はまだ確かに生きている訳ですから、死を厳密に考えるなら、全ての臓器の全ての細胞が生活活動をやめた時が死とも考えられるからです。
だから、私のように脳死を死と考える人が死んだときは、脳死を死とすればよいし、心臓が止まった時が死だと考える人の心臓が止まったらそのときを死とすればよいのだと思います。もちろん、中には全ての細胞が死ぬまでは死んでいない・・・と考える人もいるでしょうから、そういう人はそのときを死とすればよいのでしょう。
法的にはどこかで線引きをしなければいけないのでしょうが、こういう個人の尊厳に関わる問題は、法律で一律に決めるような問題ではないように思います。
私は「腎バンク」と「eyeバンク」にも登録していますが、死を厳密に考える人からは、仮に心臓死した後であっても、いかなる臓器も摘出することはできないでしょうし、そうすべきではないと考えます。また、輸血という行為も、広い意味では移植ですから、輸血を拒否する一部の人たちの考え方も、私には理解できなくはありません。
臓器提供というのは、ボランテイアとして行われるべきことであって、それを強要するようなことは、絶対に許すことはできません。また、逆に移植を拒否する権利も保障されるべきです。
基本的な考え方として、私は
「移植(や輸血)を心から希望する人(レシピエント)がいて」
「自分の臓器(や血液)を提供したい(ドナー)がいて」
この、両者(レシピエントとドナー)の希望がうまく一致したときには、移植(や輸血)をしてもよいのだろうと思います。
もっと年をとったら考え方が変わるかもしれませんが、今の私自身は、自分が脳死になったら臓器は提供しようと思いますが、では、自分が心臓病になって移植しか助かる道はないと宣告された時に、私自身は移植を希望するかというと、「そこまでして生きたいとは思わない」のです。
脳死からの移植を推進している人の中には、どう見ても「脳死からの臓器移植は絶対にいいことだ」と思っているとしか考えられない人がいます。また、逆に、移植に反対する人の中にも「移植は罪悪だ」と決めつけている人がいるように思います。どちらも、「自分が絶対に正しいのだ」という、よく言えば自身、悪く言えば思い上がりが見て取れます。
でも、この話はどちらかに決めなければいけないような、そういう問題ではないと考えます。
・・・「自分が欲することを他人が欲している」とは限らない・・・し、
・・・「自分が欲しないことは他人も欲しない」とも限らない・・・のです。
いずれにしても、自分はどうしたいのか、自分はどうして欲しいのか、ということを明らかにしておくことが一番大切なのではないでしょうか。
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